動揺


心拍数が通常よりも40%ほど早く脈打っている。

水前寺は遠目から鏡越しに浅羽の姿を凝視した。
様々な疑念が渦巻く。
侵入者が浅羽だとすると不可思議なことが多くありすぎる。
シェルターのパスコード、軍が協力しているとすら思える現状、浅羽自身の行動、その心中。
あまりにも多くの疑問が飛来しては一筋の答えも見つからず腹の奥底に消えていく。しかし水前寺の決断は早かった。
毒を食らわば皿までだ。水前寺は鏡をサイドポーチにしまうと浅羽の視界に入り込まないように部屋に侵入する。
格納コンテナの影を縫うように進み、道中監視カメラの類がないかの警戒も忘れない。
浅羽の左斜め後方6メートルに位置する格納コンテナに背中を預け、今度は自らの目で浅羽の様子を確認する。
さっき垣間見た浅羽の表情からは感情が一切読めなかった。今も背中を向けた浅羽は手元で何かをいじっている様子が見えるがそれはひどく緩慢な動きであり、慎重というよりも浅羽自身どうやればいいのかわからないなにかを操作しているような印象を受ける。
手元が見えない。
水前寺は背中にある格納コンテナに目をやり思案する。
このコンテナは先ほどの格納コンテナと違い、液晶パネルの操作で開閉する扉が開いている。水前寺は中身がからっぽのコンテナに足をかけるとひらりと格納コンテナの天板に飛び移った。直径2メートルの正六角形の形をしたコンテナの天板はほとんど埃もない。すぐさまうつぶせになり、10秒待ってから浅羽のいる方角に顔を出す。
浅羽はこちらに気づいた様子もなく手元に集中していた。斜め後方から見えるその表情には不安と期待が8:2の割合で混ぜ合わせたような心情が浮かべられていた。浅羽が何かをいじくりまわしているのが見えた。それは30センチ四方程度の大きさの漆黒の箱だった。 それを浅羽はルービックキューブを操るかのように右へ左へ向きを変えて眺めていた。
どうやら初めて見るもののようで浅羽自身勝手がわからないのだろう。ということはその箱は浅羽が今発見したということと同義である。つまり、これを軍が浅羽のためか、あるいは他の誰かのために置いていったということになる。
いや、他の誰かのためなどでは恐らくない。

あの黒い箱は、今日この瞬間に浅羽に見つけてもらうために存在していたのだ。

ゲート侵入の際にコンソールに表示されていた「puppy」とは浅羽のことを指した暗号なのだと今ならわかった。
軍はシェルターを監視する必要などなかったのだ。パスキーはどういういきさつはあれ、浅羽の手にあった。それを使えばシェルターの扉は開き、中を確認することができる。常時通電されているはずなのに、この部屋だけ明るかったのはここにあの黒い箱が置いてあったからだ。
水前寺はポーチから小型の双眼鏡を取り出し、浅羽の手元の箱を観察した。
遠目から見てもその箱には特に凹凸もないように見える。しかし浅羽はまだ気づいていないようだが箱の右辺に▼のマークがあることを水前寺は発見した。その付近を凝視すると僅かな溝が光の照り返しを受けて陰影を作っており、そこに何かを通すような仕組みであるらしい。恐らくパスカードを通すスリットなのだと思う。
浅羽もスリットに気づいたようだ。
そこからの浅羽の動きは早かった。自身のポケットの中に手をつっこむと即座にカードを取り出した。テレホンカードのようなサイズであったが、その模様がグレーか黒の一色に染められている変なカードだった。あれがパスキーか。
浅羽はそのカードをスリットに通す。通す向きが上下逆だ。▼のマークに浅羽も気がつき、今度こそカードを正しい方向に通す。
圧縮された空気が漏れる音がし、箱は開いた。
箱を床に置き、中身を目視した浅羽の表情が一変した。動揺が全身から伝わってくる。浅羽はその震える両手で中身を取り出した。
携帯ゲーム機だった。
あの種のゲーム機は三種類あって、あれは俗に言う「一番高い」やつだ。浅羽はそれを両手で持ち上げて裏返し、ROMが何も入っていないことを確認し、しばらくそのゲーム機を見つめていた。
ただのゲーム機になぜそんな複雑な表情を向けるのかが水前寺にはわからない。ただ、のっぴきならない事情が浅羽とそのゲーム機の間にはあったのだろう。そう推察できるほどに浅羽は丁寧にそのゲーム機を床に置いた。
箱にはまだ他にも機械と、何か白色のものがあった。
浅羽が取り出したのは薄い白色のプラスチックで梱包されたもので、浅羽自身困惑気味に中身を取り出した。薄い水晶でできたような金属の球かなにかが浅羽の手の中に納まっていた。完全な球ではなく、いうなればメガネのレンズを楕円状にして中心に向かって分厚くしたような印象を受けた。
その金属球に水滴が落ちた。
始めは天井から水が滴ったかと思って上を見た。しかし天井は当然のように分厚い鉄板に覆われているだけで水気が発生する余地もない。再び視線を浅羽の表情に向けてようやくその発生源が浅羽であったことに気づく。
ゲーム機を発見したのとは次元が違う程浅羽の表情は崩れていた。
浅羽は胸にその金属球を抱え込み、頭を地面の鉄板にこすり付けるようにして呻いた。
呻きが嗚咽に変わり、しゃくりあげるように浅羽の体が何度も何度も揺れた。
水前寺は目を伏せた。
これ以上見るべきではないという気持ちが浮かび、膝を立てて浅羽に背を向けるようにコンテナの縁に腰掛けた。
しかしそこで自問自答する。
ここで浅羽を1人にするという選択肢は間違ってはいないと思う。誰しも泣きたい時はあるらしく、特に男はそういう時にはそっとしておいて欲しいものだと何かの本で読んだことがある。泣くとか、泣きたいとか、そう言った感情を幼少時に置いてきてしまった水前寺には想像することしかできないが、ここでずけずけと浅羽に泣いている理由を問いただすほどの蛮勇を水前寺は持ち合わせてはいなかった。
やはり帰ろう。そう思った水前寺は両の手に力を込め、尻を浮かした。

「――伊里野」

不意に水前寺の耳に届いたのは浅羽の声だった。
水前寺は天井を見上げ、尻を冷たい天板に落とす。浅羽の言葉に込められた様々な感情が水前寺の胸に去来する。その半分も水前寺が持ち合わせる感情では共有しかねたが、それでも浅羽の辛そうな呻きは水前寺の耳から離れようとしない。
返事を期待してのことではない。胸の奥底から湧き上がってくる言葉がそれなのだろう。浅羽はただ「伊里野」と小さく、何度も何度もその名前を呼んだ。

左手で額を覆う。蚊の鳴くような、世界に自分にだけ聞こえるような声で水前寺は、
「――浅羽特派員」
無力な自分が憎かった。だがそれ以上になにかしたかった。
記憶を失った自分になにかできるとは今の段階では思えない。
大丈夫だ。
その一言が今の水前寺には言えない。言う資格もない。
忘れたままでいることがこんなにも苦痛になるとは思わなかった。
もしかしたら失われた記憶があれば、浅羽に声をかけることもできたかもしれない。
浅羽の心の傷の一部でも請け負うことができたかもしれない。
しかし、今の自分にはそんなあるかどうかもわからない記憶も、資格もない。
自らがこの結果を招いたのだ。
仲間を足手まといと思い、取材と銘打った興味本位の行為を行った。
だから自分には、浅羽に声をかけることはできない。
いや、それすらもいい訳だ。
多くの面で「普通」と異なっている自分には、誰が泣いていようとかけられる言葉などないのだ。
「共感」
言葉にすればたった2つの文字であるにも関わらず、それは自分の無力を思い知る最大の存在だった。

自らの両手を開き、見つめた。
――この手は、なんのためにあるのだろう。


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