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おっくれてるぅ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!



この坂を下るのももう何度目だろう。

園原中学に入学して、季節はもう秋に差し掛かっている。
部活に何も入っていない浅羽は学校が終わると同時に帰宅する。
今日も颯爽と自転車で風を切りながら帰路についていた。
ぼんやりと片手運転をしながら、昨夜見たTV番組の内容を思い起こしていた。
感動ものとでも言うのだろうか。
もとは高校教師だった青年が、日本を出て、紛争で親を亡くした外国の 少年少女に授業をするというよくあるドキュメンタリーだった。 浅羽はそれが事実であるかどうかを考える前に自分にはできないなと思った。
それぐらいには浅羽は自分の性質を理解していた。
正しいことをすることは、どうしようもなく難しいことを浅羽は知っている。

昨年の夏のことだった。
夏は春と同じように虫が多い。
浅羽は当時園原第一小学校生だった。夏といえばプールであり、プールといえばプール開きがあるのだった。 じりじりと照りつけるような日差しが痛い日だったことを覚えている。
体操座りで石がむき出しのプールサイドに座っていた。
すぐにでもプールに飛び込みたいと生徒全員が思っていたと思う。
しかし体育教師は毎年のことであるにも関わらず泳ぐことの危険性と重要性について語り続けていた。男子が前列。女子が後列に並んで座る。当然あくびを漏らしている生徒も多く、浅羽自身も耳を傾けるのも億劫になって、ふと後方を振り返った。
浅羽と同じクラスの女の子だった。
名前は秋原さやか。
秋原はもぞもぞと体操座りのまま右手だけをせわしなく動かしていた。
何をしているのか想像もできなかった。
熱くなった石張りのプールサイドを親指だけで穴でも開けているように見えた。
不意に浅羽は足に違和感を覚えて向き直る。
左足に蟻が一匹上っていた。
もぞもぞと動き回り、浅羽の足をこそばす。既にふとももまで上ってきている。 たまらなくなって足に息を吹きかけ吹き飛ばした。 蟻は抵抗もできずに飛んでいく。
はっとなった。
もう一度秋原に視線を向ける。
彼女は、さっきとは違う場所に指を向け、親指を基点として同じ行為を繰り返している。ぐりぐりと何かをすりつぶしているような。その足元には何匹もの蟻の姿がある。
離れた場所で熱弁を振るっている教師を横目で見る。浅羽は声を抑えて、
「やめたら?」
秋原に注意した。一言だけの注意だったが、秋原はこちらの意図を察したようだった。
「へぇ」
秋原はいい遊び道具を見つけたような表情で浅羽を笑った。
そして再度視線を落とし、今度は両手でその行為を行った。
秋原の近くを通る蟻を、手当たり次第につぶし出したのだ。
女子に声を荒げたのは、あの時が始めてだった。

正しいことをしたかった。
生き物を殺すことは間違っていると思ったのだ。
次の日から、浅羽の前で虫を殺すということが教室ではやりだした。
いじめとは少し毛並みが違ったと浅羽は今でも思う。
毎日のようなことではなかったし、特定の誰かがやっていたことでもなかった。
例えば校庭でキックベースをしているとき、バッタを捕まえてきた田中勝は浅羽の目の前で足をもいだ。例えば放課後に水遣りをしているとき、古川祐樹はカエルを捕まえてきて、傍に落ちていた石を真上から落とした。
同じようなことが5回起こったとき、浅羽は怒るのをやめた。
彼らは生き物を殺すことを楽しんでいるのではない。
自分が怒るのを見るのが楽しいのだ。
だから無視した。
殺される瞬間を目をそらし、はいはいと流すようにした。
それらの行為が完全になくなるまで、4回生き物が殺された。
ぎぜんしゃ、と言われたこともある。
家に帰ってその意味を調べたとき。
正しいことをしたかったのは自分の満足のためであると気づいたとき。
誰にも見つからない様に墓を作っているとき。

どうしようもなく悲しかった。

キュルカカカカっという奇妙な音が聞こえて浅羽は今に戻ってきた。
住宅街で通り過ぎた十字路の奥からまた同じ音が聞こえた。 ブレーキをかけ、足だけで自転車をバックさせる。 長細い道路の道端で軽トラが止まっていた。
高齢の、いかにも近所で農業をしてますという感じの推定63歳男性は、困ったような顔でキュルカカカ鳴らしていた。 ガス欠かな、と浅羽は思った。
気づくと同時に自転車を降り、交通の邪魔にならない空き地の柵の傍に停める。
「大丈夫ですか?」
運転手に声をかけると、見事に禿げ上がった頭をぽりぽりとかきながら推定63歳が車を降りた。
「いやぁ、大丈夫じゃないね。ガス欠なんて久々だよ」
恥ずかしそうに笑う推定63歳は自営農家「中村有機農業」の社長兼唯一の社員中村幸之助58歳だった。取れた野菜の宅配サービスを営んでいて、近所のアシを持たない高齢者の家に宅配した帰りにガス欠で自宅に帰れないという状況で、ここらに住んでる人は車も持ってない高齢者ばかりで助けを求めようにもどうしようもない事態に陥っている所へ浅羽が声をかけた。
自分で押すことは考えたものの、曲がり角が多いここらでは誰かが手伝ってくれなければ曲がりきれないし、なにより前方が見えず事故に繋がる。どうしたって誰かの助けが必要なのだ。
浅羽の脳裏にぎぜんしゃと言う元クラスメイトの声が聞こえた気がした。それでも、
「手伝います」
いやいやいやいやと中村は遠慮したのだが、浅羽は手伝うことを既に決めていた。
というよりも、状況を聞いて、そうですかさようならと困っている中村に伝える勇気がなかったというのが正しい。せめて、同級生に見られませんように、と心で願いながら浅羽はトラックの荷台に手を添えた。

薄情なものである。
2人で交代でトラックを押し続けてもう30分になろうか。
その間に車は2台無言で通り過ぎていったし、自転車に乗った学生が3組は笑いながら追い越していった。
まだ中村の家までは遠いらしい。
田舎のガソリンスタンドだからといって、もう少し近くにあってほしいものである。有事の際に備え、15歳から車の免許が取れるように法改正することよりも、もっとガソリンスタンドを乱立することの方がよっぽどメリットがある。園原市の市長に直談判したくなった。
暑さと、見えないゴールに立ち止まりそうになった。

ふっと軽トラが軽くなった。

太陽も浅羽に当たらなくなった。
疑問が浅羽を包んだとき、声が上から降ってきた。
「園原中学の生徒か」
顔を上げると、熊のようにでかい男がトラックの荷台に手を添えていた。
見たことがある、と浅羽は思った。
その男は浅羽と同じ園原中学の生徒である。
見た目は27歳ぐらいに見えるが、その制服は普段見慣れた園原中学のものであり、左手には「太陽系電波新聞」という腕章をつけていた。
「なかなか殊勝な行いだな。俺もガス欠させたことはあるが、押すのを手伝ってくれたことなどないぞ。あのハゲじいの知り合いなのか?」
「え、いや、違います」
男は浅羽の答えを聞いてにっと笑った。
その笑顔で思い出した。
水前寺だ。
水前寺邦博。
園原中学2年生にして、身長171センチ、100mを十二秒で走り、もらったラブレターを一読もしないまま捨ててしまう超常現象マニアのゲリラ新聞部部長、水前寺邦博だった。
「水前寺先輩、ですよね?」
水前寺は意外そうな顔をする。
「ん? 前に話したことがあったか?」
「いえ、初対面です。ただ、先輩にそういう人がいるって噂は聞いていたので」
「とすると一年生か」
「はい、浅羽です」
「部活は?」
「いえ、入ってないです。特にやりたいことも、」
水前寺の表情がぎらりと鋭くなる。
「興味深い。浅羽君、だったかね。君は共時性という言葉は知っているか」
初耳だった、顔に出ていたのだろう。
「知らんか。シンクロニシティともいうな。偶然の一致を指すものなのだが」
「シンクロなら聞いたことがありますけど」
「語源はそれだ。無関係な個体や概念が偶然意味を持つことを指す」
それが? という顔をしていたと思う。
「こんな話を聞いたことはないか?」

ある日、青年の自殺死体が発見された。
どうやら青年は住んでいたマンションの屋上から飛び降りたらしい。屋上には彼の遺書が残されていた。しかし、その青年の死因は銃で頭を撃たれたことによるものだった。警察は混乱した。聞き込みを兼ねてそのマンションを調べたのさ。そしてわかった事実が、青年は落下途中に偶然発砲された銃の弾が頭に当たり、転落途中に死亡した。発砲したのは同じマンションに住んでいた夫婦だ。夫婦喧嘩の最中だったらしい。夫が妻を銃で脅した。夫は銃を撃つつもりはなかったらしいが、その時は引き金を思わず引いてしまったらしい。
「その弾が青年に当たった?」
「そうだ。転落自殺の途中で頭に当たるなど驚くだろう? しかし夫婦の供述はさらに不思議を生んだ。夫婦のどちらも銃に弾を込めてなどいないと言うんだな」
じゃあ誰が。水前寺は浅羽が疑問を口に出す前に答えた。
「息子だよ。夫婦の息子が銃に弾を入れたらしい。夫婦の喧嘩で銃が用いられることを知っていて、息子は弾を込めたんだ。母を間接的に殺害しようとしたのさ。だがそれだけじゃない」
浅羽は軽トラを押すことなどほとんど忘れてしまっていた。
「その弾を込めた息子こそ、自殺を図ろうとした青年だったんだ」
素直に驚いた。つまりその息子は母親を間接的に殺害しようとした弾で亡くなったということだ。転落中、窓から飛んできた弾に当たるというとてつもなく低い確率であったにも関わらず。
「どうだ。興味深い内容だろう? こういった共時性をもった出来事が世界中で起こっている。最早偶然の一致などではなく、何か超常的なものを感じるだろう?」
浅羽の中で糸が繋がった。この話はどこに繋がるのかと思っていたが、超常現象マニアと噂の水前寺は共時性、シンクロニシティとやらを単なる偶然とは考えていない。何か理屈があって、それを突き止めようとしているのだ。
「さらに言えば、その共時性が働き、今俺は軽トラを押している」
「どういうことですか」
「後で話す。まずはこいつを片付けよう」

そこから35分の時間をかけて、中村をガソリンスタンドまで送り届けた。
中村は助けてもらったお礼にと浅羽と水前寺を自宅に呼び、どでかい鍋で二人をねぎらった。
水前寺は6人前は食べたと思う。
二人とも腹が形を変えるほど食べまくり、中村家の8畳間の部屋で仰向けでぶっ倒れていた。
隣で水前寺がでかいいびきを立てて眼鏡をつけたまま眠りこけている。 天井の模様を眺めながら、自分は今日正しい行いをしたのだと、と思う。
おそらく、あの場を目撃したまま帰宅したとしても、心のどこかで引っかかってしまっていたと思う。それは一晩もたてば忘れてしまうひっかかりだったとしても、あの喜んでくれた中村の笑顔を思えば、手伝うことがやはり正しかったのだと思う。 しかし、それも自分の満足のためなのだろうか。喜んでもらえた。お礼の言葉も、料理ももらった。その見返りを期待していたのだろうか。

「偽善者……か」
「誰がだ?」
驚いた。
先ほどまで聞こえていた雷鳴のようないびきはいつの間にか止まっていて、隣を見ると水前寺は天井に顔を向けたまま目を開いている。水前寺は目を天井からそらさないまま、
「もしかしてとは思うが、自分のことを言っているのか?」
浅羽は水前寺から目線を外し、5秒経ってから首を縦に振った。
水前寺が足を体に引き付け、スタントマンのように一気に畳を蹴って立ち上がった。横たわったままの浅羽を見下ろし、
「じゃあ聞くが、君は中村氏を前から知っていたのかね」
初対面だ。首だけで答える。
「では中村氏がどんな人間か、どんな仕事をしているか、どんな見返りが期待できるか知らないまま近づいたわけだ」
頷く。
「軽トラを押すように中村氏に頼まれたのか?」
首を振る。
「では君から提案したのだろう? その提案に中村氏は遠慮しなかったか?」
した。
「何を悩んでいるのか理解できんな。君の良心が動いただけだろう。俺には理解できん行動ではあるが」
でも。
「あれは……僕が事情を聞いてから離れる勇気がなかっただけです。だから、あれは偽善だったのかなって」
「偽善の何が悪い」
「え…?」
「聞こえなかったのか? 偽善の何が悪いと言ったんだ」
体を起こす。水前寺の顔を見つめ、当然だろうとでも言いたそうな顔を見ていられなくなり、
「だって、偽善なんて」
「やらない善よりやる偽善、という言葉を知らんのか。仮に君の行為が偽善だったとしても、よいではないか。中村氏はあれほど喜んだのだから。中村氏は満足、俺たちは満腹。ギブアンドテイクの形としても申し分ない状況だ」
開いた口が塞がらない。偽善がいいことなど聞いたことがなかった。
「軽トラを押している俺たちの横を何人も人が通り過ぎていったが、ついぞ助けてくれる人も声をかけてくれる人もいなかったが、普通そうだろうな。なんせ利益がない。あるいは見返りに期待できなかった。だから手伝わない。良心では動かない。彼らこそまさにやらない善を体現していたようなものだ。困っていた中村氏を助ける。正しい。実に正しい。しかし彼らはそれをやらなかった。対して浅羽君。君はなぜ中村氏を手伝ったんだ?」
「それは……」
「君が偽善だのなんだのとどう思おうと、君のしたことは正しい。ならそれでよいではないか。ほかの事など気にしてどうする」
「じゃあ、水前寺先輩はなんで手伝ったんですか?」
「俺か? 実はまさに今日、さっき話した共時性の実験をする予定だったんだ」

  村上の実家にな、軽トラがあるんだ。ん? ああ、実家のことだ。まぁ呼び方なんてどうでもいいだろう。でだ。15歳にならんと免許は取れんだろ。家の連中には内緒で事あるごとに乗り回していたんだが、昨日ついにバレてしまってな。免許を取るまで当然乗車はできない。しかし今日はどうしても乗る必要があった。実験のために機材を運びたかったんだ。
昼休みに抜け出して実家に戻ったが、誰かが持っていったらしく軽トラは影も形もない。 田舎道に止まってる軽トラでもかっぱらおうかと思ったんだが、そういうツールを学校の部室に置いてきててな。とりあえずそれを取りに戻ったわけだ。そこをうちの担任に見つかって監視まで付けられたから仕方なく放課後を待った。
放課後になると同時に部室に戻ってピックツールを全部用意して出ようとした矢先に今度は生活指導の原田に捕まった。空きがあるから構わんとはいえせめて新聞部を名乗るならもうひとり連れてきて紙面を多角的にしろと言いやがった。個人の主張をビラにして配るのなんてただの選挙活動だとまで言われてな。仕方なくその場は近日中に捕まえてくると啖呵を切ったわけだ。
それで軽トラを探して町中を回ってたら園原中学の生徒が軽トラを押してる。こりゃブレーキは解除できたがエンジンまではかけられなかったんだな、それでもなんとか押して持ち逃げしようとは馬鹿な奴だ、しかし協力を申し出れば両得だと思った。だがよく見たら運転席にハゲじいは乗ってるし、どうもおかしい。

「それで近づいたんだ」
水前寺はあっけらかんと言う。
「君が偽善だ偽善だというならまさしく俺こそ偽善者だな。だが俺は実に満足している。腹もいっぱいになったし、得てして共時性が起こしたとしか思えん事態に遭遇した。我が新聞部にうってつけの存在と思い立った日に出会えたのだからな!」
わはははは、と水前寺は笑った。
自然と、自分も笑っていることに気づいた。
二人で苦しい腹を抱えて笑った。
秋の夕暮れに腹を狸の置物のように膨らました中学生二人の笑い声が響き渡る。


後日、浅羽は太陽系電波新聞部の扉を開いた。
爆竹と催涙スプレーが新入部員に対する出迎えだったが。


さらに後日。 浅羽は同級生が体験した不可思議な共時性を部室で待つ水前寺に報告しようと息も絶え絶えに駆け込んだ。
「部長、やっぱり3組の安岡と4組の中田はシンクロしたとしか思えないことを、」
「シンクロ……? 応答せよ、浅羽特派員! 君は一体何を報告しようとしているのかね」
「え、だからシンクロ二シティですよ、共時性が起こした、」
「嘆かわしい、実に嘆かわしいぞ浅羽特派員!! 君はまだそんなことにかかずらわっておるのかね!」
そして水前寺は部室の突き当りにある窓を開け放ち、強風と共に雪が入り込んでくるのも意にもかいさず、大陸間弾道弾のように叫ぶのだ。

「おっくれてるぅ――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」

からりっ。どさっ。
部室棟の屋根に積もった雪が偶然ではあろうが落ちた。
ESPの冬が訪れた。

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