自宅
町田は全身に襲い掛かる冷気に目を覚ました。 体を起こし、冷気の原因になっている窓に近づいてみるとやはり窓は全開になっていて、網戸越しに11月の寒気を部屋中に充満させている。暗く厚い雲が空を覆っているせいで時刻はよくわからない。陽が上っていることだけを確認してガラガラと建付けの悪さを強調させながら窓を閉めてさらに鍵もかける。 ボリボリと背中をかきながら立ち上がり、酷く喉が渇いていることに気づいた。 六畳間を抜けて台所に行き、先に蛇口をひねってから食器棚に手を伸ばす。 愛用のコップには夢の国の住人がハローと挨拶をしているイラストが表記されていて、まだ頭のすっきりしない町田は陽気に挨拶を返すこともできず、そのまま流れ出る水道水をコップに入れてから水を口に含む。カルキ臭い水と一緒に現実がようやく町田の腹の中に冷たさを蘇らせた。 「ぶはぁっ!」 盛大に水を吹き出してコップをシンクの中に落としてしまう。 安物シンクは大きな音を立てた。太鼓のように響く音は町田に頭痛を呼び、まるで二日酔いになったかのようにズキズキと痛む。 「なんだ……、俺いつ帰ってきたんだ?」 町田は一瞬何が起きたか理解できない。慌てて町田は周囲を見渡した。 もう住み始めて4年の付き合いになるボロアパートだ。どこに何があるのかは完全に把握している。それなのになぜか住み慣れた感覚の中に違和感がある。 自分の住処であるこの場所で目を覚ました。それなのに奇妙な違和感だけが腹の奥底で沈殿しているような感覚。今まで居た場所はまったく違った場所だと思うのに、それを信じることができない記憶と経験、齟齬。これらの不可思議な感覚をどう表現するかは決まっていた。 「記憶が……消されてる?」 ――待て。 冷静になって思い出せ。昨日のことは覚えてる。昨日の夜に、自分はこの場所にはいなかった。ではどこに、 「あ」 町田は急いで居間にかけ戻り、テレビのリモコンを探す。 記憶を消されている以上、自分が知っている昨日が、一般的な昨日である証拠は頭の中にはない。 町田は前回記憶を消された時も、数ヶ月という時間の流れに取り残されていることに気づいたのはテレビのニュースを見たからだ。なんでもない眠りからの目覚め。当たり前のように目覚めたその日は昨日を越えて訪れる当たり前の今日であり、数ヶ月の時間を経た今日であるなど想像もできなかった。 今日が『昨日を超えた今日』である証拠がほしかった。 自分が感じている昨日は数ヶ月、いや何年も前、そういった可能性だってあるのだ。 「どこだ」 親戚からもらったテレビは大した大きさでもないがそれなりにきれいに扱われているおかげで安っぽくはみえない。しかしその反面リモコンがないとスイッチが故障しているせいで起動しない。 「ああくそっ」 リモコンが見当たらない。6畳間の大きさしかないくせに、見つけたいときには絶対に見つからないくせに、夜中に立ち上がったときにはそう低くない確率で足の下に現れるくせに。講義に使う教科書を跳ね除け、半年も前から転がっている運転免許の教本を投げ飛ばし、エロ本とエロビデオを重ねたエロの総本山をけり崩すと、リモコンはその姿を現した。 急いでスイッチを入れてチャンネルを回す。 「――はぁ」 日付は自分が昨日だと思っていた日付から1日しか経っていない。時刻は朝の7時。前回に自分を襲った数ヶ月もの記憶の欠落ではなかった。そこに到り、ようやく町田は安堵のため息を吐き出した。 改めて台所に行き、床に撒いてしまった水を傍に放置していた雑巾で拭く。途中からは面倒になって足で雑巾を操り、手はコップに伸びて改めてコップ2杯分の水を飲み干す。 ぷはっと大してうまくもない水が腹のそこで水溜りになり、ようやく頭が働きだすのを感じる。 記憶は、途切れ途切れになっている。 「……水前寺からあのカードを預かって……あれ?」 町田は懸命に昨日の出来事と、水前寺との衝撃的な出会いと、街中を歩きに歩き回った記憶を思い起こした。その辺りの記憶なら鮮明に思い出すことができる。アイスクリームが特売だったとか、帰りにエロビデオを返さないとな、と思ったこととか、隣家の浅羽家の母と挨拶を交わしたこととか。 だが一部でどうしても思い出せない部分がある。 町田は昨日市川大門駅に向かった。だがなぜそこに足を向けたのかがわからない。記憶の中でその理由となる部分が完全に消去されている。だが残された記憶の中の水前寺が記憶を消した連中の存在を教えてくれた。 「前のも、これも軍のやつらの仕業だって言ってた……」 危険な連中だということを町田はなぜか知っている。 記憶を消された時のことを体が覚えているような感覚だけがあるが、脳が恐怖としては識別してくれないため妙な鳥肌だけが表現される。奴らは危険だ。そうわかっているのに、町田の中でひとつの熱が腹の底で灯る。 「あいつら……!」 なぜかはわからない。 思い出せもしない以上、なぜ怒りの感情が浮かぶのかはわからない。あいつらって誰のことだ。顔のない軍人しか脳には浮かばない。だが口から出た言葉は町田自身の中で沸点を越えさせるのに充分な力強さを持っていた。けれど町田はその怒りを胸の深奥に押し殺した。怒りに任せていいことなど今まで一度もなかった。第一振り上げた拳をぶつける場所が見当たらない。今感情に流されて拳を振り下ろしても我が家の家具と拳が痛むだけだ。 出しっぱなしだった水道の水を手で受け止めて顔を洗う。 一度、二度、三度と水を顔にかけるたびに少しだけ冷静さが戻るような気がした。 傍に置いてあったタオルで顔を拭き、あごに手を添えてみて気づいた。 ひげが余り伸びていない。 町田は風呂に入ると同時にひげを剃る習慣があり、出掛けにひげを剃ることは非常に稀だ。今のひげの伸び具合から見て確実に昨夜風呂の中でひげをそる余裕はあったのだ。つまりその瞬間までは町田は日常を営んでいたことになる。 だが湯船に浸かった瞬間から、記憶の再生は市川大門駅で水前寺というジャーナリストに投げ飛ばされた瞬間に飛ぶ。ということは、奴らは風呂に入った町田を襲ったのだろうか。 「ああっ!」 町田は意図せず大声をあげてしまう。 軍と接触した記憶は消されていたが、あの時水前寺に近寄った理由は思い出した。 グレーのカードだ。 水前寺との会話は丸々頭に残っていたことから昨夜あのカードを水前寺から預けられたことが鮮明に浮かぶ。 ということは、昨日消された記憶は2箇所あるという結論に到る。 風呂に入ってから水前寺に出会うまでの時間。そして水前寺にカードを預けられてから今に到るまでの時間だ。共通するのは自分と水前寺以外の人間との会話。必ず接触のあっただろう軍の人間との会話の記憶だ。そして話の内容は恐らく、 ――カードはどこだ。 町田は慌てて辺りを見回す。答えはすぐ傍にあった。玄関横のいつも家の鍵をかけてあるコルクボードに家の鍵とは別に黒い封筒がピンで留められてあり、ふんだくるように封筒をちぎってみると中からは水前寺から預かったグレーのカードがあった。 間が抜けていると大学の仲間内でも揶揄される町田ではあるが、ことこの状況に置いて浮かぶ疑問は正鵠を射ていた。 「なんであいつらこのカードを持ってかなかったんだ?」 疑問に答えてくれる人間はここにはいない。 町田は時計を見て、疑問に答えてくれるだろう人間との約束を思い出した。 本音を言えば、町田は水前寺に会うことにためらいを覚えている。記憶を消されているからどうしても理由は思い出せないのだが、町田は水前寺を裏切った。これだけはどうあがいても変えられない事実である。グレーのカードを預かった。しかし記憶の残滓から導き出されるのは、預かったカードを町田は軍のやつらに渡してしまったという事実だ。このカードは町田が水前寺に預かったカードではないかもしれない。このカードにはさらなる罠が仕組まれているかもしれない。 ため息が自然と町田の口からこぼれた。 だが、会うことを止めるのだけは駄目だと思う。どういう経緯があれ、変えられない事実があるのだから責任は取らなければならない。ならすべてを伝えよう。 顔を上げる。集合は10時だ。まだ時間はある。
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