異音
1つ。 記憶を消された人間が園原市に何人もいる。 2つ。 記憶を失くした人間の噂はけっこう有名な話として飛び交っている。 3つ。 記憶を失くした人間に違和感について問い詰め抜くと対象は異常をきたす。 これが水前寺が軍から解放されて調べた1つの『噂』のまとめだ。そしてそれがどうやら事実であることを新聞部の部室で行った催眠実験を経て水前寺は根拠たるものを体感している。 水前寺は自身の記憶をかなりの日数分消去されていた。だが消えた記憶は本当に消去されたのか。それともただ自身の奥底に眠ったまま思い出せないだけであり、内在する記憶を催眠誘導によって無意識に呼び覚ますことができるのではないかと考えた。結論から言うと催眠実験は失敗だった。 記憶の退行が発生するほどの深い催眠にあっさりとかかり、水前寺は浅羽と須藤の前で幼児に戻ったなどという情報を得た。まったく詳しく話してほしくない話ではあったが、興味深い話であった。 そして以前から園原市では記憶を消された人間の噂はけっこう聞いていた。 他にも記憶を消された人間がいるのなら、なにか記憶を取り戻す方法があるのでは――。そう考えて天童のおじいが残した古地図の調査などと平行して聞き込みを行ったのだった。 聞き込みの結果、記憶を失くした本人にはまだ会えていない。しかし違和感や疑問を感じたという4人の人間と出会うことはできた。 本人を特定するようなことはできないと全員が主張していたことと、シェルターの解体から始まる一連の事情が重なりまだ納得がいくまで調査はできていないが、出会えた4人には共通点があった。いずれも記憶を失くしたのは当人との日常的な会話をする中で齟齬が生じたというのだ。たった数時間前のことなのに、本人がその事実を否定する。一緒に同席していたはずの映画を見てみたいという。大なり小なり、違和感はこういったものだった。 だがその違和感の正体を調べるようなことは得たいの知れない恐怖から誰もできてはいなかった。 しかし、最後に出会った人物はその違和感の追求をやめなかった。確信的ではなく、偶発的ではあったのだが。 ――記憶がない? いやいや、おかしいだろ。まぁ酔ってたしなぁ。え、いやいや。確かに来たって。約束した帝門ホテルのビアガーデンに8時に集合したし、合コンもした。盛り上がったノリで2次会は季節はずれの肝試ししようって話しになって、出るって噂があるつぶれたホテルに4人で行っただろ? お前ベロベロに酔ってて1人だけどっか行っちまって。ホテルの中いくら探してもいなかったから奥の別館かもって話になって俺らも入っていってさ。行ったらお前1人で別館のロビーでボロボロになったソファに面接の時みたいに背筋張って座ってただろ? なんでそんなとこいるんだって聞いても上の空でさ。なんか居たのかって聞いてもお前ぶつぶつなんか小声で呟くだけですげぇ怖かったんだぜ? 女の子は気味悪がって帰っちまうしさ。あ、そういやあの黒髪の子のアドレス聞いたんだろ? 俺にも教えろよ。俺あの子ちょっと気になってんだ。なあ情報交換しようぜ。あの子彼氏いるの? 趣味は? なんかスポーツやってる? 好みのタイプは? バイトどこだって? なぁ、おい。え――どうした? いくつもの質問を投げかけれらた男は今の町田と同じような状態になり、友人は怖くなって逃げた。次の日、様子を見に行くと昨日のことなどすべて忘れていて、なんでもない顔で居たそうだ。 問題になったその廃ホテルに水前寺は向かったが、既に解体工事が進んでいて別館とやらも瓦礫しか残っていなかった。 単なる噂だとは似たような体験をした水前寺には思えなかった。 そして噂が事実だったことを町田を通して水前寺は知った。 「町田」 声を掛けると、3秒ほどの時間をかけて首だけで返事がきた。 こくり。 「君の名前を教えてくれ」 「――町田、一輝」 「所属は?」 「…………」 「質問を変えよう。大学での学科は?」 「――人間科学部」 「今何歳だ?」 「――22歳」 うつろとした表情は依然変わらない。口調に覇気も生気もなく、聞かれた質問にそのまま返答する。所属に関しては何に対しての質問か町田が理解できなかったため返答しなかったのだろう。 「軍の人間って、わかるか」 こくり。 「最後にそいつらと会ったのはいつだ?」 「――わからない」 「覚えてないのか?」 こくり。 水前寺はいくつかの質問を繰り返す。しかし、町田の返答は事態を好転するようなものではなかった。どうやら、催眠状態に陥ったとしても、思考の底に隠された記憶を呼び覚ますことはできるわけではないらしい。それは同時に水前寺が自身に行った催眠実験は無意味だったということを示している。 だが、無駄ではなかった。 自分があの時須藤晶穂の催眠術にあっさりとかかったのは軍が自分に対して記憶の操作を行った直後だったからだ。さらに踏み込んで言えば、自分は何か催眠状態に陥りやすいように薬か何かを投与されたということだ。 町田はつい昨夜に記憶を操作されたはずである。だからこんなにも簡単に催眠状態に陥っているのだ。 「町田」 「――」 「初恋はいつだ」 「――4歳」 「相手は?」 「巴」 「それはどこの誰だ?」 「――中西団地の原正治の妻」 どうやらその頃から団地妻が大好きだったらしい。三つ子の魂百までとはこういう場合も当てはまるのだろうか。そしてこの問答からわかるように、隠し事はできないらしい。なら、 「最後の質問だ。……お前は軍のスパイか? おれに同行するように指示を受けたのか?」 長い沈黙があった。しかし、町田の首は質問に対してNOと応えた。 「疑ってすまなかった」 水前寺は町田に聞こえるか聞こえないかの声量で謝罪した。 もう聞けることはない。町田を元に戻そう。 放っておいても元に戻るとは思うが、今は時間が惜しい。浅羽と須藤が行ったときにはいくつかの質問を投げかけるうちに自分は正気に戻ったという。今とは状況が違っているが、脳の混乱に始まったこの状態は、再度の脳の混乱によって繋がるということなのだろうか。水前寺は無意味な質問を頭の中で羅列して、 「百億の彗星が1つになることで四次元空間が発生する合星理論を紐解いたのは誰だ? 現実と虚構世界の歪みを埋めるのはバーコードだと定義したのは? 7と6の間には8がいくつある? レンガが落ちてきたときに下にいるのは友人か自分かどちらだと思う? 缶コーヒーを蹴ったときにくずかごに入る可能性は? ダブルクリックって誰が考案したんだと思う? 人類が滅びるのはいつだ? 明日の――」 「10月26日」 ぞわりと背筋になにかが走った。 町田の口から何かが飛び出した。それは今までの自分の行為を振り返れば、質問に対する答えだということになる。そして無意味な質問を水前寺が選んだのは町田にとって意味のわかる質問では駄目だからだ。だが、今――町田は確かに応えた。自分が質問した無意味な問題の中で日にちに関わるもの。それは最後にした質問をおいて他ならない、 ――水前寺の息が止まった。 意味もない質問だった。しかし町田は今、確かに、 「もう……1度聞く。――人類が滅びるのはいつだ?」 「10月26日」 再び背筋を走ったもの。今度はその正体がわかる。それは寒気だ。理性ではなく、本能が感じ取る危険、恐怖。目の前にいるのは誰だ。町田一輝と名乗るこの人間に見えるものは? 声音をなんとか平静に保ちながら、水前寺はさらに尋ねた。 「――なぜ? なぜ人類が滅びるんだ?」 答えはない。 無限とも思える時間が経ち、呼吸を止めてからもう5分以上の時間が経過したような気さえする。しかし視界の隅にある小さな時計ではまだ10秒と時間は経っていない。意味が伝わらなかったのか。返答が来ないことを水前寺はそう判断して息を深く吐き出した。 「お前は――、一体なんだ?」 口調が冷静さを失っていた。それでも水前寺はなんとか質問を重ねることができた。町田の様子に変化はない。目は薄く空いたままだし、呼吸をしているような音もしない。答えないか。水前寺がそう思った直後だった。 町田の目が急にうごめく。それは爬虫類のそれと同じように異様なスピードで動き、ある一点でピタリと止まる。うな垂れたままの角度から、町田の目は確かに水前寺を捉えていた。 「……………………………………………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………………………………クカカ」 低く、直接内臓を掴まれる様な音だった。笑い声だとそれが気づいたとき、水前寺は戦慄が全身を駆け抜けるのを感じた。恐らく 、銃を眼前に突きつけられたとしてここまでの悪寒が襲うことはないだろう。銃とは人類が生み出したものであり、決して理解ができないものではない。人間の世界に存在する常識からは逸脱していない。だが、だが今の声。体を離さない寒気は、消えない鳥肌は、完全に人間の理解の範疇を超えたものを感じた。 水前寺は悟った。 こいつは町田ではない。 いや、人間ですらない。 今はうな垂れた顔から視線は落ち、水前寺を捉えては居ない。 自身の体が動いたのは奇跡だとしかいうほかない。 水前寺はうな垂れたままの町田の体に手を伸ばす。あと数mmで水前寺の手が触れる。その瞬間に町田の顔がガバッと水前寺に向く。心臓が一際高く鳴動する。 目の前のダレカの瞳が、水前寺を捉える。 「え、あれ?」 見覚えのある町田の目と、聞き覚えのある町田の声だった。 いつから呼吸を止めていたのだろう。水前寺は長く深い息を肺が空になるまで吐き出した。嫌な汗が全身を濡らしていた。 「水前寺? おれ、なんか今……あれ?」 「お前は眠ってたんだよ」 どうやら町田は空白の時間を意識できてはないようだった。 「は? いや、おれずっと起きてたよ?」 「いいや、お前はこの10分間、確かに意識を失っていた」 「でもさ、」 「聞いてみたほうが早い」 水前寺は耳につけた盗聴器を外した。鞄の中からコンピュータを取り出して専用の機械に盗聴器を置く。 先ほどまでの2人の会話がそのまま再現された。 「な……んだこれ、俺こんなの話した記憶ないぞ……」 水前寺は例の声が聞こえる手前で再生を止める。なぜかはわからなかったが、水前寺は心の中で境界線を引いた。これ以上は、町田に踏み込ませてはいけないと本能が悟ったのだ。先ほどの質問に返答したことや、空白の時間を意識できてはない。 「催眠術だ。正確には軍の人間に打たれたか飲まされたかの薬のせいだと思うが」 「薬?」 「お前の首筋にある傷。蚊に刺されたにしては傷がはっきりと見える。恐らくお前が昨夜記憶を消された際に使われた注射の跡だろう」 町田が冷静さを取り戻すのを待ち、催眠体験のある人物との接触についても説明する。 「じゃあ催眠状態に落ちちまったらなんでも簡単に答えちまうってことか……。そうやって記憶も消してるのか」 「いや、恐らくこれだけじゃないな。催眠状態にさせたとしても、都合のいい記憶だけを消すことは難しい。恐らくさらに他の方法があって、記憶を見たり消したりするのはそれが必要なんだろう」 「うーん……」 「まぁ、今この事実を知ったからといってどうにかする方法があるわけじゃない。人目に触れない場所で確認したかっただけだ。というわけで町田。しばらくは誰かに質問攻めされたりするなよ。街中で白痴の如き顔をしたってすぐには助けられんのだからな」 「あんた以外にそんなことしてくる奴いねぇよ」 「そう願う」 心からそう願う。こんな体験をする人間は少ないほうがいいに決まっている。水前寺の心にまた一つ、調べなければならない事柄が増えた。しかし、それは今まで調べようとしていたこととはまったく性質の異なった、内臓が重くなるような事柄だった。 「ますます連中を放っとけなくなったな。人の体にわけわからんもん入れやがって」 「そうだな」 「よし、もうここで調べられることは無くなったんだろ? ビデオ屋。案内するよ」 「あ、ああ。よろしく頼む」 先に立ち上がり、部屋を横断する町田に遅れて水前寺は立ち上がる。 町田の記憶を奪ったもの。それがなんなのか。今はわからない。そして、それは自分にも投与されたのだ。 つまり。 町田の中から現れたナニカは、自分の中にもいるのだろうか。
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