解答


「なんで夜中なのよ……」

浅羽夕子はいそいそと上着を羽織りながら、どうしても零れてしまう怨嗟の声を上げずにはいられなかった。
念のために再び窓から階下を覗いてみると、やはり歩く独立機甲兵、水前寺邦博はまだかまだかとこちらをちらちら見ながら周囲を見回していた。
もう少し焦らしてやりたい気持ちが沸々と浮かんでくる。
それを実行に移さないのは、夕子自身にも水前寺に尋ねたいことがあるからだ。
自分の部屋から出て、兄の部屋の前に立つ。
廊下は電気をつけていないせいで窓から差し込む月明かりしかない。
だから部屋に兄が今もいるのならばふすまから部屋の明かりが漏れているはずなのだ。
しかし、目の前のふすまからは月夜に浮かぶ模様が見えるだけで、何の光も漏らしてはいない。
いないはずはなかった。
20分ほど前のことを思い出す。
物音がして、自分の部屋から廊下を覗くと、何かを抱えて自分の部屋に向かう兄の姿があった。兄は病的なまでに生気をなくしており、自分の部屋の前で壁にもたれかかり、手元の何かを見てぶつぶつと何かをつぶやいていた。兄が部屋に入ってから少しして両親が階段を上ってきた。2人は意を決したような面持ちで兄の部屋に入った。
始めは薄いふすまを通してさえ聞こえない程度の声量だった。
しかし兄の声が次第に大きくなってきて、その声が震えだした。
父と母は声を荒げることはなかった。しかし部屋から出てきた母は目元に涙を浮かべていた。
父が階下に母を下ろした後、自分の部屋にきて、
「今日、また直之になにかあったみたいなんだ。夕子は何か知ってるか?」
わからない。と短く答えた。
父は返事をせず、ただ沈痛な面持ちで何度も頷くだけだった。

大型のバイクが走る騒音が夕子を現実に戻した。
ふすまにそっと手を伸ばす。ただ――ただ兄の顔を見て話がしたかった。
しかしこの薄いふすまをノックする、それだけのことが怖かった。
このふすまを開いてしまえば、中で兄が何をしているのか知ることができる。それは自分の疑問への解決の糸口になるかもしれないが、そんなものを自分は求めているのだろうか。数日前にも似たようなことがあり、同じように兄の部屋の前で佇んでいると、部屋の内側から兄の声が聞こえた。 名前を呼ぶ声と、謝る声。
聞いてはいけないものを聞いてしまったと思った。
その時も、なにがあったのか聞きたかった。
なんとかしたいと、心から願った。
しかし、そのどちらも今の兄の耳には届かないだろう。
家族の誰にも、兄は心を開いてはくれない。
あの日。
軍のヘリに連れられて帰ってきた兄はそれまでの兄とはもう違っていた。
目に光がない、という表現だけでは伝えられないほどの悲哀がその瞳にはあった。
兄はどこに連れて行かれたのだろう。
なにをされたのだろう。
なぜ入院するような自体に陥ったのだろう。
そして、これは考えたくないことだったが、連れて行かれた先で兄は何をしてしまったのだろう。
答えも持つ兄と自分を隔てているのはふすま一枚だけなのに。その距離はあまりにも遠く感じる。
それから10秒だけ考え、やはり声をかけることもできないまま夕子は急な階段を下りた。
父は和室で何かを考え込んでいて、少し声をかけづらい雰囲気だった。
母は居間で洗濯物にアイロンをかけていた。その背中に声をかけた。
「お母さん」
母が振り返る。
夕子はその瞬間に目をそらしたくなった。目元がとても痛々しかった。
「どうしたの?」
「ちょっと出かけてくるね」
「こんな時間に?」
「その、知り合いが来てるから」
母は眉を少しだけひそめて父の方を見た。
父は腕組みをしたまま顔を夕子に向けた。
「それなら上がってもらった方がいいんじゃないのか? 外で話すのは危ないだろ」
「えっと……、その、恋愛――相談だから。友達の親には聞かれたくないと思うんだ」
父は母と目配せをして再度夕子を見る。
夕子は面と向かってその視線を受け止めた。
「――ん。じゃあ30分までには帰ること。それよりも長くなりそうなら、一旦顔を見せに戻ってくる。それと何かあったら大声で叫ぶんだ」
「――ありがと」
母はなおも心配そうな顔をしていたが、それ以上声をかけてくることはなかった。
夕子は父に一度だけ頷いて、サンダルを履いて玄関を出た。

水前寺が門のすぐ傍で待っていた。
目が合うと水前寺はかなり待たせたにも関わらず変な笑顔を作ってから、人差し指を口元に当てた。さらに親指で自分の後方を2度指した。
黙ってついてこい。そういう意味だと受け取って歩き出した水前寺の後方に続く。
やはり、家族には聞かせたくない話であるらしい。
こちらとしても、その方がありがたかったが水前寺が持ってきた話がどんなものなのか予想もできない。しかしこの男が口を開く前に、まず溜まりにたまった文句を言ってやらなければ収まりがつきそうもない。
今、兄が陥っている状態の原因はこの男ではないかもしれない。
しかし、その原因すら作った根幹かもしれないという疑いは消えない。
たらればが頭の中で高速回転する。
兄が新聞部になど入らなければ。
この男が新聞部など作らなければ。
この男がまっとうな人間であったら。
「なにをボーっとしとるのかね、浅羽くん」
「ボーっとなんかしてない」
「じゃあどこまで行くつもりなんだ? もう公園には着いたぞ」
水前寺から目を外し、辺りを見回すと近所の公園だった。遊具もある少しばかり大きめの敷地を持つそれは、夜でも街灯が灯っていてそれなりに明るい。周囲には団地もあり、大声を上げればすぐさま誰かが駆けつけてくるような場所だ。しかしその敷地に入っていることに夕子は気づいていなかった。
やはり少し視野狭窄の状態になっていたように思う。
「す、座りたかっただけ! ほら、あそこ」
少しだけ焦燥感に駆られるが、なんとか普段どおりの声で返事ができたと思う。夕子は青いペンキが既にさび付き始めた、風に揺られただけできぃきぃと金属音を鳴らすブランコを指差した。
ブランコに座ってみると、少しだけ視界が変化する。いつもより低い視線から見上げる身の丈豊かな水前寺の巨躯は殊更巨大に見えた。
水前寺はブランコには座らず、すぐそばの同じペンキで塗られた鉄棒の支柱に寄りかかった。
「まずは夜分に呼び出してすまない。電話しようかとも思ったんだが、ご家族に知られるのは少しまずいし、何より盗聴の可能性があったからな」
夕子はまず大きな疑問が頭を占領するのを感じた。水前寺が謝罪から入っての会話など初めてのことだったし、その表情に何かの違和感を感じたからだ。しかし、その反面この男はやはり超常現象マニアの水前寺だなと思う。なんの根拠があって盗聴の心配などするのだ。
「それはいいけど。もし私が窓開けて止めなかったらブロック本気で投げてたの?」
「投げるわけなかろう。そんなことしたら隠密にことを進めようとしている計画が台無しだ。それにもし君が部屋の中心でのんきに腹出して寝てたとしたらブロックが当たったら殺人罪か器物破損及び殺人未遂の罪に問われることになる。塀の中の飯は今はまだ食いたいとは思わん」
歯軋りが出そうになる。
そういう常識から一歩ずれた所への配慮をするのなら、まず家のチャイムを鳴らすことを考えて欲しいものである。家族が出たとしても既に顔は割れているのだからお得意の口車で丸めこめばいいのだ。
文句は次から次へと出てくる。しかし今日は少し事情が違う。我慢できることなら我慢して、無駄な時間を浪費するわけにはいかない。この密会は終了時刻の決められたものなのだ。
「すまんが用件だけ伝えさせてもらうぞ。浅羽特派員は既に帰宅済みか」
いきなりの本題に少しだけ虚を衝かれる。首だけで返事する。
「その、あいつの様子はどうだった?」
女の勘というものだろうか。ぴんと来るものがあったと言ってもいい。
「なにがあったのか知ってるんでしょ。まずそれを教えて」
水前寺は組んでいた腕から右手を外し、伊達メガネの位置を直す。しかしその右手は再び組まれることなく水前寺の顔を覆うように移動した。
指の間から見える水前寺の目はこちらを向いてはいなかった。
「言えない」
「なんでよ!?」
声を荒げないと決めていたのに、どうしても我慢できない。ブランコの鎖が一際甲高くきぃと悲鳴をあげた。
「君が欲しがっている答えを持ってないからだ」
「わたしの疑問がなんであんたにわかるのよ」
水前寺は夕子から視線を外し、そのままあさっての方向へ視線を向けた。その眉が少しだけゆがみ、そのまま沈黙する。
「なに? どうしたのよ」
夕子の声に水前寺は一瞬虚を衝かれたような表情をした。そして夕子に視線を戻し、
「いや、後で話す。さっきの言葉の理由は簡単だ」
人差し指で水前寺は自らの胸をとんとんと押した。
「おれもその答えを探してるからさ。探してることは2つ。『浅羽特派員に何が起こったのか』そして『どうすれば浅羽特派員を元気にできるか』だろ」
言葉に詰まった。この男のなんでもお見通しだという目が嫌いだった。無言が暗黙のうちの肯定になってしまう。
「前者の問題は浅羽特派員と、――当事者しか知らないはずだ。おれはその中には残念ながら入っていない。そして後者の問題。これは……情けないが暗中模索の状態だとしか言いようがない」
両者の間に沈黙が流れる。夕子の頭の中では今日まで抱え込んできた疑問が一つ一つ撃墜されていくような感覚に襲われる。しかしそれでもこの男は自分よりも多くを知っているはずなのだ。もし、そうじゃないのなら。自分はもう誰を頼っていいのかわからなくなってしまう。
「それでも――。それでも今日何があったかは知ってるんでしょ? ……それも教えてくれないの?」
水前寺は顔を落とし、熟考を重ねた上で話せないとつぶやいた。
「恐らく、おれが今日見聞きしてきたことを君が知るのは、浅羽特派員が望んでいることではないと思う。というか、おれが知っているということも浅羽特派員は望みはしなかっただろう」
「尾行したの?」
「結果的には。ある目的があって行った先に浅羽特派員が来たんだ」
「どこ行ってたのよ」
「――――シェルター」
奇しくも夕子は夏休みがあけた最初の日曜日のことを思い出してしまった。
水前寺とこうやって向かい合って話すのはあの日以来のことである。
学園祭の時も執拗に追われた記憶こそあれ、周囲の目もあってまともに取り合わなかったのだ。
あの川辺での殴りあいを思い出し、その理由を思い出し、その日は何が目的で兄をつけたのかを思い出した。
辞書に挟まれた入部届け。入部希望理由、入部希望先、そしてそこに書かれていた伊里野加奈という名前。心のどこかであの川辺での会話のように、この男は答えあわせをしてくれると思っていた。あの日の出来事を機に、兄と自分の関係は少しだけ前進したように思っていた。この男のおかげだとは認めたくはなかったが、シェルター事件のおおよそ真相とも言える与太話を自分に伝えてくれ、その与太を自分は信じたのだ。兄は女の子を襲ったりなんかしない。昔から知っている小心者で、臆病で、けれど誰よりも優しい兄の姿だった。それを守ってくれたからこそ、自分は水前寺にある種の期待を向けていたのかもしれない。しかし水前寺もその答えを持ち合わせていない。先ほど水前寺は当事者という言葉を使った。ではその当事者とは誰なのか。恐らく、それはシェルター事件のときと同じだと思う。

「ねぇ。やっぱり伊里野加奈は関係してるの?」
「ああ」
あっさりと肯定される。もう歯止めは利かなかった。
「お兄ちゃんは振られたからああなっちゃったの?」
「恐らく違う」
「やっぱり――。なんかさ、お兄ちゃんのあの感じ……ただ振られたんじゃなくてさ」
「振られたという話も本人から聞いたわけじゃないんだろう? ではそれは単なる妄言だ」
水前寺が制止するような言葉を投げかけてきたことで夕子も幾分かの疑問は解消された。
この男も兄がああなった理由の大半は伊里野加奈にあること以外わかっていないのだろう。そして、恐らく単なる男女の別れ以上の何かがあの2人にあったのだと気づいている。
「あのね――情報交換しない? 前と同じようにわたしからでいいから」
水前寺は『前と同じ』という言葉を聞いて鼻で笑った。 つられて夕子も少しだけだが笑みが浮かぶ。 平和だった。 夏休みを終え、平和な日常の中で兄がどこかのアバズレとデートに行ったかも知れない。その真相を突き止めてやると息巻いていたあの頃は、本当の意味での平和だったのだ。将来になんの不安も感じていていなかった過去の自分はなんと幸せだったのだろう。水前寺も、夕子と同じ感覚をかみ締めているのだろうか。
「ああ、頼む」
「えっとね……」

夕子は自分の知っていることを水前寺に話し始めた。


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