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まるで戦争だった。

空砲なのだから何も問題はないのだが、一並びになった戦車が午後の1時を知らせる13連発の発砲はやはりとんでもない衝撃である。
須藤晶穂は耳を押さえながら体に響く振動を楽しんでいた。
隣ではしゃぐ島村清美も全身で喜びを表現するように飛び上がり、片手を空に掲げている。
西久保正則も、花村祐二も、同様に園原基地の巨大な滑走路で悠然と佇んでいるであろう戦車たちに喝采を上げている。

晶穂たちの位置からは園原基地の南第一ゲートのごてごてに飾られた姿と、新しく建造されているメインストリートの馬鹿みたいにど派手な客引き用の看板と、後はアリのように群がる人だ。
あまりにも多くの人がごった返しになり、隣にいる人が園原中学の生徒なのか、他校の生徒なのか、あるいは学生のふりをした宇宙人なのかわからない。
どう見てもその筋の人にしか見えない人がねじり鉢巻をして「本日限定! 園原産イカの塩辛200円!」と書かれた看板をバシバシ叩きながら客引きをし、サンバの格好をした女性が和服の女性と隣り合わせになってお互いの衣装があーでもないこーでもないと出番まで罵り合っている。ビールジョッキを片手に野球のボールをいじくり回っているスーツ姿の男もいれば、杖をついて歩いているおばあちゃんの背中には漫画でしか見たことがない巨大な風呂敷が背負われている。
まさに烏合の衆である。
園原市が関わる祭りだとか、成人式とか、式典だとか、こういった類のものは異様な熱気に毎度包まれる。それが園原市の風土なのかもしれないが、あまりにも整いがなさ過ぎてかちこみ直前の暴走族の集会に見えてしまう。
今日はここ数年の中でも一番の重大な祭りである米兵の送別式典だった。
しかし、国を守ってくれた米兵を送り出すという粛々とした態度など、送る市民も送られる米兵も求めてはいない。開始された午前9時から1時間と47分しか厳かな雰囲気は続かず、そこからは場所を園原基地の各所へ移しこの顛末である。
2週間前から準備に準備を重ねた今日この日だけは恐らく園原中学の旭日祭を凌ぐ規模での祭りが執り行われている。上空をまた最新気鋭の戦闘機がパラベラムを組んでフレアを撒き散らして住民が歓声を上げる。
旭日祭と同様に、参加する団体は事前に申し込みさえすれば飛び入りだろうがなんだろうが許された。そしてその申し込みも当日の深夜まで。つまり電話一本で当日にライブを行おうが、店を出そうが自由なのである。園原基地の敷地全土を使用可能なのだから規模も半端ではない。その上申し込みも殺到し続けていたので、運営側など申し込み開始2日目の朝の段階で匙を投げた。完全な無法地帯の誕生である。

晶穂たち園原中学の生徒がこの式典にゲリラ参戦することが決まったのは昨日のことである。
発端はミステリーサークル作成ののために向かった殿山で水前寺に拉致されたときのことだった。
「ち、ちょっと部長! どういうことですかっ! なんで浅羽を手伝って、」
水前寺はおんぼろ軽トラの排気音を消し飛ばすような勢いで叫んだ。
「応答せよ須藤特派員! こちらの仕事があると言っただろう! 人手がいるんだ。園原中学のクラスメート、いや生徒全員に連絡をとって集められるだけ集めてくれ。明日の米兵送別式典に我々もゲリラ参戦するぞ!」
わけがわからなかった。
「全然説明になってません! 降ろしてくださいよ、なんで浅羽の手伝いをするのが野暮……」
晶穂はそこで突然気づいた。水前寺はなぜ「野暮」などという言葉を使ったのか。ミステリーサークルを作ることは新聞部の共通行事だったはずだ。なぜ浅羽はそれを一人でもやろうとしたのか。なぜミステリーサークル作成を手伝うことが野暮なのか。
もしかして。まるで根拠のない、女の勘から出たある一つの可能性が口から出た。
「伊里野……?」
「さすがだ須藤特派員! 帰ったらよかったシールをやろう!」
冷静な反応など示すことはできなかった。とにもかくにも水前寺の横っ腹をぶん殴り、軽トラを急停車させ、水前寺の喉元を締め上げる。水前寺は苦しそうにうめきながら
「伊里野特派員が明日、帰ってくる、うぐ……おい、こら、ほんとに絞まっ……」
気を失ってあの世へ行きそうな水前寺を強引に現世におかえりいただき、すべてを吐き出させた。
伊里野は、園原市に向かってくるはずだと言う。帰ってくることは急に決まったらしく、浅羽はそのことを知らない。浅羽本人は心に決めたことが何かしらあるようで、その邪魔はしたくない。伊里野が帰ってきたことを告げるのはそれが終わった後でもいいと。
晶穂はふっと体の力が抜けるのを感じた。それがどうしてなのか今でもわからない。自分は嬉しかったのか、それとも……

そして納得も、浮かんでこようとして消える疑問も、全て投げ出して行動した。まず清美に連絡し、西久保、花村、そして迷ったが元2年4組級長、現3年2組級長である中込真紀子にも連絡をした。話した内容は「伊里野が帰ってくることになったから式典に私らも参加して出迎えようかと思うんだけど」
「行く!」
示し合わせていたかのように全員が賛同した。

そしてその日の17時の段階で概要が園原中学の9割の生徒に通達されていた。
知人や親戚の手伝いなど理由は様々だが、もともと全生徒の3割以上がこの式典に企画側としていた。その3割に当日冷やかしに行く予定だった残りの生徒が加わった。
園原中学の生徒が立ち上げた企画は7つあり、晶穂たちが参加を決めたのはここだ。
「鉄人屋―園原基地店」
鉄人屋の店長である如月十郎は難色を示していたが、店員達が絶対に参加するべきだと殴られながらも説得を続け、居合わせた園原中学の生徒がサポートを名乗り出て、出張店を園原基地に出店することになった経緯があった。
晶穂が陣取っているメインストリートの一角には園原中学の有志一同が鉄人屋の出張出店をサポートしながら走り回っている。一角と言ってもとてつもなくデカイ看板が示すとおり、その規模はとんでもない。鉄人屋がまるごと入るような巨大なコーナーが設けられ、食事用のテントが8つ。食べすぎて動けなくなった休憩用のテントが4つ。汚物を撒き散らした敗残兵用の死体置き場が隔壁に守られた格納庫として1セットととんでもない規模で開かれている。
これらの中央では巨大な調理スペースが設けられ、先程から店長の如月十郎がどう考えても馬でも切り落とすのかと言わんばかりの鉈包丁で肉やら野菜やらを切り刻んでいる。怒号と一緒に鉄拳が振るわれるたびに店員がパイプ椅子を飛び越える。
鉄人定食ももちろん健在で、本日だけは鉄定2人前を3人まで徒党を組んでの完食も認可となっているため朝から挑戦者と死体が後を絶たない。こんなクレイジーな食事をおれ達はジェノサイドしたんだぜと祖国への自慢のために愚者の群れが次の鉄定はまだかと鬨の声をあげる。 学生が集められたのは料理の運搬はもちろんだが、死体運びが主な仕事で、わざわざ園原中学から持ち込まれた3台のリアカー「バルキリー01」「バルキリー02」「バルキリー03」の通称ドナドナ号が全て運用されてもまだおつりが来る。何せ図体だけでもとんでもない自衛軍兵士や米兵が二重三重になって折り重なって倒れこむのだ。プロレス研のような目指せガチムチマッスルカーニバルのような連中が今日ほど役立ったことはない。
目の前に広がる光景をみて、晶穂は胸がすくような気持ちのよさを感じるが、同時になぜか漆黒の穴が徐々に胸の中に開いていくような暗い感情に、

「おーい、晶穂ー」
はっとして振り返ると、清美がビラを片手に晶穂のほうに駆け寄ってきていた。
「もうお客さん座れそう?」
「だめだめ、ぜんっぜんお客さん減らない! とんでもない量なんだから客も考えて注文すりゃいいのに、もうあの辺り油の匂いが充満しすぎて気持ち悪いったら」
そううそぶく清美は最近ツインテールから一つにまとめた長い髪をなびかせる。
清美の長い髪を見て、どうしてもだぶって見えるのは髪が真っ白になってしまった伊里野の姿だ。自分の中でうずまくこの感情がなんなのか晶穂は自分でも説明できない。
清美は晶穂の様子を見て、何か気づいたようだ。
「あのさ、晶穂は楽しめてる?」
突然だったのでうまく笑えたかどうかは自信がない。
「なにが? こういう雰囲気は旭日祭みたいで好きだよ」
「そういうんじゃなくて! 電話がかかってきたときは晶穂のこと考えずに即答したけどさ。 後になって晶穂はどういう気持ちだったのかと思って。その……浅羽のこととかもさ」
「……うーん」
澄み切った空を見上げる。
先程の航空編隊が残した飛行機雲が何重にも重なり合っている。
清美には去年の11月に、一度だけ相談した。浅羽への気持ちであるとか、伊里野への嫉妬だとか、なによりもずっとうずまく後悔について。
浅羽は伊里野のことが好きだった。
それはどう考えても認めないといけない事実であったし、それゆえに傷ついた浅羽を癒すことは自分が浅羽の傷に付け込んでいるような気がして何の行動にも出なかった。もちろんこれは自分には浅羽を癒すことなどできないことに対しての言い訳でしかなかったと今ならわかる。 比較され、否定されるのが怖かっただけだ。
だから、自分の気持ちを浅羽に伝えることもなかったし、あざといアピールなど考えるだけで恐ろしかった。そういった自分の中の感情を曝け出してなお、清美は自分を否定せずにいてくれる。それは単純にとてつもなく幸運なことなのだと晶穂は感じていた。
「前に私が言ったこと覚えてる? 晶穂は姉御肌っぽいところがあるって」
覚えてない、と顔で伝える。
「ありゃ。えーとね。単刀直入に言うと、晶穂は損してると思う」
「いきなりなにそれ」
「だから、我慢してるんじゃないかってこと。浅羽のこともそうだけど、加奈ぶーのことにしてもそう。新聞部の部長さんに誘われたって言ってたよね。今回の件はさ」
頷く。清美の意図するところがいまいち晶穂にはわからない。
「なんで断らなかったの?」
「なんで断らないといけないの?」
質問に質問で返すのはあまり褒められた行為ではないとわかってはいたが、
「またそうやって無理する。無意識なのかもしれないけどさ。ぜんっぜん楽しそうじゃないんだもん。電話で声聞いた時からそう。正しいことだからって晶穂が無理することなんてない。いやならいやだって言えばいいんだよ」
「ち、ちょっと待って。誰が嫌だなんて言ったのよ。伊里野が帰ってくることはいいこと、」
「だーかーら! そこが無理してるって言ってるの。自分がどうしたいのかって、晶穂結論だしたの? 伊里野が帰ってくるってことは今まで宙ぶらりんにしてた浅羽のことも考えなきゃいけないってことでしょ。気持ちの整理がつかないまんま加奈ぶーに会ったって向こうも困るに決まってるじゃん。見てるこっちは緊張するし」
自分が伊里野に会ったときにどうするか、など考えたこともなかった。
伊里野を迎え入れる準備は整っている。しかし、そこに自分が含まれている必要はないと思っていた。伊里野にとってみれば浅羽が歓迎してくれればそれでいいのではないかと思っていたこともあるし、そこに自分の暗い感情を持ち込まないで済めば、伊里野にとっても、自分にとっても好都合であるように思えたのだ。
「第一ね、あんた気づいてないかもしれないけど、女子の中で一番加奈ぶーに頼られてるのは晶穂なんだから。賭けてもいいよ。加奈ぶーがあのゲートくぐって私らのこと見つけても一番に探すのはあんたよ。あんたの表情次第で加奈ぶーは喜びもするし落ち込みもするの」
自分が伊里野にとって大きい存在であるという自覚はあった。
しかしそれは浅羽に対する感情をめぐっての存在であって、頼りにするとか、そういった感情から来るものだとは思ってもいなかった。
自分は、伊里野のことをどう思っているのだろう。
「だから、そんな表情のまま加奈ぶーに会ったりしたら傷つくのは加奈ぶーだけじゃなくて、晶穂自身も傷つくんだよ。それに単純な質問、晶穂にとって伊里野はなんなの?」
「伊里野は……わたしの」
伊里野が帰ってくると聞いたその時から。いや、鉄人屋で死闘を超えてからだ。あの日から、伊里野を浅羽というレンズを抜きにして覗き込んだ。そこにいたのは、浅羽が好きな女の子ではなく。ただ、不器用なだけの女の子だったのだ。
「あー、うん。わかった」
うんうん、と頷き、晶穂は体を伸ばした。
手に持っていた客引き用のビラを全部投げ飛ばした。風に乗ってビラはメインストリートに煽られるように飛んでいく。
突然の晶穂の行動に清美は目を剥く。
晶穂はそんな清美に悪いことを思いついたような、無邪気さと妖艶さがないまぜになったような笑顔を向ける。体の底から息を吸い込み、真夏の大地に向かって全部吐き出す。昔から自分の中のマイナス感情を全て洗い流すためにやっている行為だ。2度、3度と繰り返すたびに体が少しだけ軽くなっていくような気がする。
「ありがと」
清美は戸惑いながらも、いつもの晶穂に戻ったような気がした。困った人を放っておけない、けれどそれは自分の性分なのだから考えても仕方ない、やらない善より、やる偽善だと豪語していた晶穂に。

遠くからクラクションの音が届いた。
それは何度も連続で聞こえ、徐々に音が近づいてくる。
耳をそばだてながら、晶穂は気づいた。
クラクションの合間に断続的に聞こえる、おんぼろ軽トラが鳴らせるエンジン音に。
南第一ゲートに目線を向ける。距離は40メートルも開いていたが、ゲートに付属しているランプが施錠の赤から開錠の緑に変わるのを見た。
全てのランプが緑に点灯すると同時に、遠くで戦車の空砲が轟き、第一次空襲警報が響き渡る。同時に今までランダムに流れていた音楽が凱旋パレード専用の曲に変わり、拳銃型の発炎筒が至る所で赤や黄色や緑色の煙幕を上げる。視界の隅で凱旋を知らす煙幕を発射する担当になっていたピエロが分厚い手袋のせいで発炎筒を発射できずにもたついているのを確認した。晶穂は全速力で走り出し、道中に放置されていた酔っ払いを飛び越え、空になったペットボトルを力の限り蹴り飛ばし、ピエロの手から拳銃型の発炎筒をふんだくる。安堵しているのか怯えているのかわからないピエロを無視し、大空に向かって発射した。青色の、今日の空と同じ色をした煙幕が空に帰っていく。
打ち合わせどおりだった。
晶穂の投げ飛ばしたビラにはこう書かれている。
南第一ゲートが開くと同時にパレードが開催される。時間は未定、その来たる時に向けて備えたし!と。
南第一ゲートが開くとき、その来たる時に、今回の主賓の凱旋が始まったのだ。

ゲートが開く。
至極緩慢な速度で、地響きのように地をこする音を響かせながら、汚い軽トラがその隙間から姿を見せる。
運転席には水前寺が先のとんがった似合いもしないサングラスをかけ、不敵な笑みを浮かべてクラクションを鳴らし続けている。助手席では浅羽の妹の夕子ちゃんがとまどったような表情で辺りをきょろきょり見回している。
荷台で間抜け面で立っている兄も同じだ。何が起きているのかまるで理解できていない顔で落ち着きがない。
そして。
その隣に麦わら帽子が浮かんでいる。
隣に立っている浅羽の胸の辺りから帽子だけがぴょこんと浮いており、ピンクのリボンだけがその向きを右へ左へ方向転換している。
ゲートがゆっくりと閉じられると同時に、ゲートのすぐ内側の、メインストリートを挟んで相対する2対の巨大な格納庫が唸りを上げだした。アラートが鳴り響き、中からは巨大な装甲車と、2階建ての巨大なバスが4台と、サンバの衣装をしたお祭り部隊と、和服で民族衣装を披露する移動車両が姿を現した。メインストリートを装甲車が先駆け、道を切り開く。そしてバスが続き、お祭り部隊が追随し、水前寺の乗る場にどう考えても不釣合いな軽トラがしんがりを勤めていた。

パレードの開催である。
至る所でクラッカーが鳴り響き、同時に堰を切ったかのように若い軍勢が軽トラの周囲にチョコをねだる子供のように群がって声をかけている。その大勢は恐らく伊里野のことなど顔も知らない園原中学の生徒だろう。どんな見物があるのかと興味だけが彼らの足を動かし、トラックの荷台に向けられる。
浅羽は引きつった笑顔で手をへらへらと振り、水前寺はなぜか園原中学校歌を歌い、夕子ちゃんは水前寺の影に必死になって隠れている。
そして麦わら帽子は今は伊里野加奈となって周囲を見回してる。
髪の色が戻っている。血色も遠目から見ても悪くはないはずだ。園原中学の制服をただ一人着込み、抱いた猫を顔の前に持ち上げて辺りをきょろきょろ見ていた。
誰かが軽トラの荷台に飛びつくように乗り込んだ。
西久保だ。遠目から見てもあの時代がかった変な髪形はわかる。必死に荷台にしがみついているのは花村だろう。いつの間にか清美も荷台に飛び移っていた。
西久保と花村は浅羽の肩と背中をありったけの力ではたき、清美は伊里野の両手をとってぶんぶんと嬉しそうに上下している。

その姿を見て、晶穂は胸に抱え込んでいた暗い感情が昇華されていくのを感じた。
伊里野が帰ってくるのに対して、面と向かって何かを言える自信がさっきまでの晶穂にはなかった。ここ数ヶ月の出来事全てを笑顔に変えることはできそうになかったし、伊里野に対して顔向けできない自分が確かにいた。伊里野が何をしていたかは知らないが、戦争が始まったとき自分は逃げたのだ。家族の疎開という名目を盾に、無理に残ろうと思えば残れたのに、髪が真っ白になってしまった伊里野を置いて逃げ出した。非日常の象徴のように伊里野を見てしまい、見えない戦争に恐怖してしまった。今日まで続く後悔の原因はそれだった。
晶穂は、伊里野が戻ってきたその瞬間に、どういう顔を自分がするのか予想できなかった。
清美はそれを見透かした。
清美、あんたすごいわ。

晶穂は駆けた。
人ごみを掻き分け、転がっていたボールをホームセンター主催の手作りストラックアウトのど真ん中に投げ込み、突然始まった行水目的の消防団による放水をスライディングでかろうじてかわし、階段を蹴りとばすように上がり、鉄人定職に挑む愚者どもを実況するための放送台に飛び移った。足元に転がっていた拡声器をむんずと掴む。
そして辺りを見回しながら鼻息をふん、と一発。
こういった雰囲気を味わうのは何度経験しても気分がいい。
左手を腰に添え、拡声器に向かって腹の底から叫ぶ。
「伊里野ーーーーーーーーーーーっ!!」
あまりの大音声に何事かと下界の住人達が一斉に晶穂を振り返る。
その中には伊里野も含まれていて、荷台の上でおろおろとしていた伊里野が忙しなく顔をめぐらせ、ついに晶穂を捕らえる。伊里野はその顔を少しだけほころばせたように見えた。
晶穂の周囲からなんだなんだと声が上がり、好奇の視線が何十も重なり晶穂に刺さる。
しかし晶穂はひるまない。
あれこれ考えるのはやめた。
伊里野が帰ってきた。
それを自分は嬉しいと思っている。
浅羽のことなんて関係ない。
友達が帰ってきたのだ。
嬉しくて当たり前なのだ。
歓迎することの何が悪い。
誰にもそれを否定することなどできないのだ。
だから、晶穂は伊里野に向けて再び叫ぶ。
「おかえりーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
晶穂の叫びはしっかりと伊里野に届いた。
びくんと体を跳ねさせた伊里野を見て、さらに安心させるために袖をまくり、左手を右腕の上腕二等筋にのせてポーズを決め、心の中から浮かぶ感情を伊里野に向けて放った。
初な下級生が見たら、それだけで恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。
伊里野は今まで見た中で一番嬉しそうな表情をし、その両手が喜びのあまり胸の少し上にまで跳ね上がり、しかし恥ずかしさが勝ってその手は中途半端なところで止まり、ゆっくりと口元にもっていかれ、その口から蚊の鳴くような声が発せられる。
足りなかった欠片がついにそろったような気がした。
新しい新聞部。それは今年2人になってしまうはずだった。
浅羽と自分だけのゲリラ部。しかしいなくなるはずだった部長がどういう手を使ったのかは知らないが残ってくれ、夕子ちゃんを加えて4人となった。しかしまだ足りなかった。何か功績を残したわけでも、成果を出したわけでもない。それでもそこに伊里野がいないと知ったとき、どうしようもなく物足りなかったのだ。いつか、夢に描いた伊里野と2人だけで取材に出かけて、お互いに最高点を出すような店を発見して記事に書く。
それが実現できる。
最高の気分だった。
恐らく伊里野の声は隣にいる浅羽や清美にも聞こえていないだろう。
しかし、胸を満たす言葉は晶穂の耳に確かに届いた。


それはたった一言の『ただいま』だった。


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