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浅羽夕子は手元にあるグレーのカードを公園の薄暗いライトの中でぼんやりと眺めていた。

風が夕子の背筋をゆっくりとなで、その驚く程の冷たさに体がぶるっと震えた。体の震えというものは奇妙なもので、寒いとき以外にも恐怖を感じたときにも感じるそれを連想させ、今の今まで気づきもしなかった夜の公園に1人きりという状況を如実に浮き彫りにする。意味もないのに周囲を見回してしまい、人影を探す。
まだ待ち合わせ相手の水前寺邦博は現れない。
集合時間までは後7分あるが、心のどこかで早く来てほしいと願っている自分を感じ、それが許せなくて夕子は座りこんでいたブランコを引いて全速力で漕ぎ出す。
前後動にあわせてなる鎖の音は、昔体験した夕子の記憶を呼び起こす。
まだ小学生に上がる前だったと思う。
夕子の近所には同い年の西尾さやかという女の子がいて、その子は幼稚園も一緒ということもあってよく夕子と足を揃えて色々な場所で遊びまわった。兄と遊ぶことが一番多かったとはいえ、兄もいつでも自分の相手をしてくれるわけではなかったので、そういうときにさやかの存在は非常にありがたかった。今では年賀状でしか交信はないとはいえ、さやかはよき友人であったのだ。
ある日さやかが公園に行こうと夕子を呼びに家まで来た。
夕子は兄がいないこともあってさやかの誘いにのってこの公園にきた。
当時のこの公園は塗られたてペンキの匂いがまだ取れきっていないほどすべてが新しかった。この錆びが浮かぶ鎖でさえ、当時の夕子から見れば光り輝く手綱に見えた。さやかとはよく2人でどちらが最高点まで早く辿りつけるかとか、どちらがはやくブランコを止められるかといった勝負をしたものだ。
そして、その日のさやかはなぜか自慢げな表情を携えていて、いつもと同じようにブランコに座り込む夕子の隣でいつもと同じようにブランコをこいだ。しかし見ててよー、というさやかはその直後に立ち上がった。
夕子はその光景が信じられなかった。
当然今の夕子にとっては造作もないことなのだが、ブランコをこいでいる最中に立ち上がり、そのまま最高点に到達するという、ただそれだけのことが夕子にはたまらなくすごいことに感じた。
ブランコで遊んでいる他の子も立ち上がっているのを見たことはあってもそれはみんな小学生の、しかも男の子達だった。夕子は夢中でさやかにどうやるのかを尋ねたが、さやかは自身ありげな表情でさらりと夕子の追及をかわし続けた。その日の夕食では夕子が1人さやかのすごさを熱弁し、兄に聞いても兄もそれはやったことがないし怖いということを聞いてさらに舞い上がった。年上の兄にもできないことをさやかはできたのだ。
明日もさやかのところへ行って秘訣を教わろう。そう思って入った布団の中で、夕子は夢を見た。
夢の中で夕子はブランコの上で立ち上がっていて、そこから広がる世界はどこまでも高く、殿山なんて簡単に越えてしまうほどすばらしい光景だった。
夢から覚めた夕子は興奮が止まらなくなっていた。なんとしてもブランコの立ち上がった場所から見る景色が見たかった。
しかし、その後さやかとはしばらく会えないまま、彼女はよその区へ引っ越してしまい、夕子はその秘訣を教わる機会をなくしてしまった。夕子は1人でブランコの前で試行錯誤するが、同伴していた母の前で一度盛大に転げてしまい、母の前ではブランコの上で立つことは禁止されてしまった。夕子はそれが悲しくて大声で泣いた。どこへ行こうとしてもさやかがいなくなってしまった今では家族のだれかがついてきてくれなければ外出すら許してくれず、危険な行為は父も母も許してはくれなかった。 それでも夕子はどうしてもあの夢で見た景色が見てみたかった。
夢を叶えてくれたのは、兄だった。
まだ夜中といえる5時くらいだったと思う。
兄は布団で寝る夕子を起こし、公園へ連れて行った。
眠気が残る頭で兄が何をしようとしているか、ブランコの前に立ってわかった。
兄は夕子をまずブランコを漕ぎ出す前にブランコの上に立たせた。そして後ろに立って夕子の背中を優しく押し出す。次第に兄は後方へ下がり、押す力を強くして夕子をより前へ前へと向かわせた。
あの時の喜びようは自分でも思い出すだけで笑いがこみ上げてくるほどだった。
勢いがついてきて、兄はそれ以上押すことができなくなったことを悟って夕子からも見える前方に移動した。
最高点にたどり着くにはまだスピードは足りていない。
しかし夕子にはそれ以上スピードを上げる方法がわからない。
だがそれに対しても兄は答えをくれた。ひざを曲げて、足元に向けて力を込めろ。当時どういう表現をしていたかは具体的には思い出せないが、夕子は兄の言いたいことをなんとなく理解して言われた通りにやってみた。
何度かやってみて、コツが掴めたと思った時、夕子は最高点に到達した。
そのときに夕子が見た景色はいつもより少し高くから見えただけのいつもの公園だった。しかしそこにあるものは確かに違って見えたことを今でも覚えている。兄が見せてくれた景色は夢に見た景色に遜色がないほど美しく感じたのだ。
下界の兄が手を振るのが見えて夕子は現実に帰ってきた。
昨夜に見た兄とは異なる姿がそこにあった。
次第に明るみ始める空の明かりに浮かび上がる兄の両手や両足に見える無数の擦り傷。
まだ血も乾いていないものもあった。
それが意味するものを、幼いながらに理解した夕子はブランコを止め、兄に抱きついて感謝した。兄は自分のためにずっと1人で練習していたのだ。ぼくにはできない、怖いと言っていたのに。
兄はそういう人なのだ。

思い出を振り返り、再度思う。
兄が何をしたというのだ。
あんなになるほど追い詰められる理由などない。
ないはずだ。
もしあるのだとしても、優しい兄を傷つけるその理由こそが根本から間違っているのだ。
もう何度目になるかもわからないため息が夕子の口からこぼれる。
水前寺にグレーのカードを盗むように頼まれたとき、正直断りたかった。
そのグレーのカードがどれだけ重要なのか自分は知らない。兄にとってそれを奪うことはさらなる落胆を生むかもしれない。そう思ったから、右手に力がこもったのだ。
けれどあの時最後に思いとどまったのは、水前寺が言葉を偽らなかったような気がしたからだ。
――盗みだしてほしい。
普通ならもっと当たり障りのない言葉を選ぶだろう。
けれど水前寺はその言葉を選んだ。
盗むことには変わりない。しかし兄の手元から奪うことが、兄にとってよくないことだとわかっているからあえて言葉を偽らず盗めと言ったのだと思う。ならなぜそこまで気づいているのに盗ませるのか。
具体的な話はできなかったが、恐らく水前寺はあのグレーのカードを使って何か危険なことをするつもりなのだろう。夕子には想像すらできないような、けれど確実に前に向かって進むことができるような方法で。
気になった。
兄と水前寺は言うなれば他人である。極端にその2人の関係性を見つけ出すとしたら部活の先輩後輩、友人、師弟関係、主従関係。そんな言葉しか当てはまらない。
しかしそんな関係は実際なんの拘束力もない。それなのに、なぜ水前寺は。
水前寺の反応は意外だった。
頭の中での水前寺はどんな質問に対しても0か100で答えを大声で叫ぶような人間だった。 知っていることなら数語で。知らないことなら1語で。
必ず豪語するような人間だと思っていた。
――わからない。
その一言が出た時、夕子は水前寺を信じることにした。
半ば信じるほうに気持ちは傾いてはいたのだが、どうしても兄のあの悲しげな背中が記憶の中で残滓となって消えなかった。兄をもうこれ以上追い詰めることはしたくない。そんな可能性が1%でもあるのなら実行などしたくない。 そう思っていた。
けれど気がつけば夕子は水前寺の頼みを聞き届けていた。
それが実行に移せるかどうかの保証はなかったが、水前寺のその迷いに夕子は賭けてみようと思った。
兄はこの男を信じていた。
なら、一生に一度くらいこの男を信じてみよう。それが正しかったのかどうか。今はまだわからない。

グレーのカードは難なく手に入った。
家に戻ると既に兄は部屋にいなかった。
夕子も家を飛び出そうとしたが、母に止められた。
既に父が探しに出て行ったそうだ。
母は心配そうだったが、それでも父を信じているようだった。
だから夕子は自分にできることをしようと思ったのだ。
待ち合わせまであと3分。
時計を見たのと足音を聞いたのは同時だった。
反射的に夕子は立ち上がりながらグレーのカードをポケットに隠した。
公園の入り口に視線を向けると、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「あれ~、こんな夜中になにやってるのかなー」
声が届くと同時に恐怖の感情がまた戻ってくるのを感じていた。
水前寺ではなかった。
近所を散歩して偶然通りかかったようにも見えなかった。
男は全身真っ黒なスーツで身を包み、額にサングラスをかけてこちらに歩み寄ってくる。その足取りはなぜか酷く耳障りだった。きちんと地に足をつけているのにその痕跡がない。雨でぬかるんだ地面を避け、タイルの上だけを選んで歩いているようにも見える。
「あら? もしかして警戒してる? ま、そだよねー、こんな夜中に男が近づいてきちゃあね……」
不快感が口から溢れた。
「それ以上近寄らないで!」
「お言葉だな~。大丈夫、なにもしないって。ま、今日の所は……だけどね」
「近寄らないでってば!」
男は夕子の反応がいちいち面白いらしい。あからさまに夕子の不快な表情に対して愉悦を感じてすらいるようだった。
「まま、そう怒鳴んないでさ。ご近所迷惑だよ。浅羽夕子ちゃん。ほんとはさ、俺個人としては君に色々話したいこともあるんだけどさ。ざぁーんねんなことに今日はこれを渡すことしかできないの。だから今日のとこはこれでお別れっ! よかったねー」
そういって男は脇に挟んでいた漆黒の長方形の物体を水飲み場の上に置いた。
「いやー、君。将来絶対いい女になると思うなー。そん時は俺アプローチすっからさ。そん時まで自分を大事にしてね~。あ、このファイルもちゃんと見といてね。気をつけなきゃいけないのは俺なんかじゃなくてこいつだから! 少なくとも俺は親なんか殺さないからね~。あ、俺の親もう死んでるんだった! じゃ殺しようがないっつの! なははは、それじゃ。またねー」
背筋を走る気持ち悪さと気味の悪さがないまぜになって全身を襲う。夕子はしばし息をするのも忘れてその場に立ちすくんだ。あの男は何者なのか。そんな当たり前のことを考えれるまでに30秒以上かかった。
やっとの思いで息を吸い、夕子は男の影が一切見えなくなったのを確認してから水飲み場に恐るおそる近寄る。 男が置いていったものをそっと手に取った。
それは黒い表紙で覆われた資料ファイルだった。
A4サイズのそれを開くと、目に飛び込んできたのは水前寺のしかめっ面だった。履歴書のように水前寺の顔写真が貼られ、そこから個人情報が羅列されていた。
身長176センチ、体重67kg、視力2.0 血液型AB型。
嫌な予感が心を支配していたからだと思う。さっきの男の言った言葉が頭の中を駆け巡る中で夕子が反射的に浮かべたのは血液型一緒だ、ということだった。先を見るのが怖い。先を見たいと思ってしまう自分が怖い。目が心と真逆に進んでいく。経歴。警察に補導されること7回。うち不法侵入4回。重要参考人扱い1回。家族構成。祖父母とは別居中。父。41歳。存命。姉。21歳。存命。母。故人。享年29歳。事故現場。園原市滝宮区一宮町7番2号交差点。
目に映るものをどう受け取ればいいのかがわからなかった。ファイルが地面に落ちる。風がファイルのページをめくる。

「殺害を……自供……」


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