カウンター

事故


水溜りを掻き分けて水前寺が乗るスーパーカブが雨風を切り裂いてゆく。

先ほど一時止んでいた雨は思い出したかのように再度勢いを増し、水前寺の体をどんどん濡らしていく。
文句なしの遅刻だった。
水前寺はその事実に気づいた瞬間に迷うことなくカブを引っ張り出し、家を飛び出した。
やはり冷静さを欠いていたように思う。
部屋を出るときに雨具やタオルなどが詰まったポーチを手に持っていたはずなのに、それはなぜか使われることなくカブの座席下収納にしっかりと収められている。ずぶぬれになりながら水前寺は再度腕時計を見る。
既に時計は待ち合わせ時間を20分も過ぎていた。
まずい。非常にまずい。
思案にふけると時間を忘れるのは常のこととは言え、非常に重大な任務を任せた相手のことをすっぽかすのは非常にまずい。商店街を抜け、大通りを渡り、浅羽理容店の前を通り過ぎ、浅羽夕子の部屋の電気が消えているのを横目に見て焦燥感がさらに募る。
街灯の灯りがあるとはいえ、その灯りはそう強くはない。
夜道の上にこの雨だ。
心の焦りとは別に、なにか奇妙な感覚が水前寺を包んだ。それは信号のない交差点にさしかかろうとした瞬間に水前寺を襲い、顔を上げた。意識が内面から外界に向けられると同時に、耳をつんざくようなモーターの唸りを聞いて水前寺は横滑りがしない程度にブレーキを強く握った。交差点に入る直前で車体を停止させる。
一陣の風が吹き抜けた。
目の前の交差点をものの1秒もかけずに車が右から左へ通りすぎた。
完全な速度オーバーで通り過ぎた車に一瞬の冷や汗が流れる。しかしそれは背中に当たる雨と同化してすぐにわからなくなった。
交差点に進み、車の消え去った方向に視線を向ける。遠めに見える車は大型の白いバンだった。
水前寺が、殊更警戒しているタイプと同じタイプのものだった。
園原市にはその存在に気づけば警戒するべきタイプの車がある。
それがさっき通り過ぎたバンだ。
車体の一部に銃窓がついているあのバンが向かう先か、あるいは後にしてきた場所には必ずなにかの隠された事実があると水前寺はにらんでいる。
一瞬の心臓の高鳴りが収まりだし、冷静な思考が水前寺の頭に訪れる。さっきの轟音は明らかに停車していた車がアクセルを踏み込んだ音だ。しかも水前寺の目の前を一瞬で過ぎ去った速度といい、あのタイミングといい。
「おれを狙ったのか……」
理由はひとつしか浮かばない。
つい先ほど会った人物。これから会う人物。それは監視がつくほど極端な護衛体制が敷かれている相手だ。自分という存在が奴らにとって危険な存在となってしまったが故に先ほどの所業に出たのか。
「――!」
心臓が一際高く跳ねた。
バンが通り過ぎた先しか水前寺は見ていなかった。
だがバンが通ってきた道、それは水前寺が向かおうとしていた道と重なる。
これから会う人物はバンが通ってきた道の先にいるのだ。
「浅羽くん!」
思わず声に出た言葉を、水前寺はうなりを上げるエンジン音とヘルメットに叩きつける雨音で自分の耳には届くことはなかった。

カブを投げ捨てるように停車させて水前寺は座席を降りた。
待ち合わせ場所の公園は雨音以外聞こえず、そこにいるはずの相手を水前寺は容易に見つけることができない。辺りを見回し、ブランコに視線を送り、遊具の影を覗きこみ、トイレの外から呼びかけた。
辺りを探しまわって、ようやく見つけることができた。
水前寺がカブを止めた場所とは真逆の位置にある屋根つきのベンチに座り込んでいる。その体は明らかに濡れていて、寒さのためか震えているように見えた。無理もない。10月を過ぎてからの冷え込みはそれまでの熱気をすべてなかったことにしようとするかのようであり、気温の激変は著しい。その上この雨だ。
声を張り上げ、水前寺はベンチに駆け寄った。
「すまん! 待たせた浅羽くん!」
夕子の反応は火を見るより明らかだった。全身で驚きを表現するかのように、夕子は文字通り飛び上がった。水前寺は声が大きすぎたのかと、その程度にしか思わなかった。
「遅れて本当にすまん、心から謝辞を……」
水前寺は夕子の様子がおかしいことにやっと気がついた。
当の夕子は水前寺のほうを見つめていた。しかしその表情がおかしい。無表情――。一言で表せばその言葉以外には当てはまらない。しかし水前寺は完全な無表情といったものは、そうそう人の顔に浮かぶものではないと思う。生活する上で感情を伴わない瞬間はまずない。そういった表情を浮かべる理由を水前寺はすぐには思いつかない。しかしそういった表情を水前寺は見たことがある。
幼き頃に見た表情であることはわかる。しかしそれが誰のものだったかまでは思い出せない。
夕子はただ何の感情も出さない瞳を水前寺に向け続けていた。
「浅羽くん、何があった……?」
どう聞き出すか水前寺は数秒迷い、だが率直に聞くしかないと思って声を絞り出した。
夕子は水前寺の声にやっと反応を見せた。その瞳に動揺が浮かび、夕子は水前寺から視線をそらした。そしてそこに答えがあるかのように手元に視線を落とした。
黒いファイルが夕子の膝の上にあった。
「このファイルね、さっき変なやつが置いていったの」
「変なやつ?」
「全身真っ黒なスーツ着た変なやつ。ちゃらちゃらしてるくせに、なんか――」
そこで夕子は自分の身を抱きしめるかのような仕草を見せた。
「大丈夫か?」
「平気……。それより、そいつがその中身を見ろって」
ファイルについていた泥を夕子は簡単に落とし、水前寺に手渡した。その手が震えている。
ファイルを受け取りながら、夕子の手が震えている理由を思案したが、結論はでなかった。その変なやつのせいなのか、それとも雨のせいなのか、もしくはこのファイルの中身のせいなのか。
2つ折りのファイルを開く。
戦慄が水前寺を襲う。
ファイルには水前寺のこれまでの情報が網羅されていた。身体情報はもちろんのこと、警察に補導されたことや職務質問のこと。そして情報は家族のことにまで及んでいた。
それには当然のごとく、母のあの事件のことも地域新聞の切り抜きまで持ち出してファイリングされていた。
日付は10年前のものだ。
園原市のとある交差点で交通事故が発生した。
新聞には事故にあった被害者の名前も伏せられ、個人を特定するような情報はまったく載っていなかった。地域新聞の役目は事故が発生したことへの住民への注意勧告が目的であり、そこに個人を特定するような情報は不必要であったからだ。
しかし、このファイルにはそこからがメインであるかのように、悪意がこめられたとしか思えない情報が列挙されている。それはゴシップ記事のように何者かの調査内容を、さもその目で見たかのように記載してあった。
被害者は園原市在住の農業従事者、水前寺玲子(29)と息子である水前寺邦博(5)。
大型トラックとの接触事故だった。事故を引き起こしたトラックはカーブミラーに衝突したが、救急車の手配などをすることもなく逃走。倒れていた母親は近隣の住人が連絡した救急車で病院に搬送されたが間もなく死亡。救急車には息子も同乗していたが、軽い擦過傷のみで検査入院で済んだ。
その後、警察がひき逃げ犯を追うために目撃情報を募り、その足は事故目撃者でもあった水前寺邦博にも及んだ。父親同伴で行われた事情聴取の中で水前寺邦博は母親殺しの犯人は自分だと殺人を自供した。
当時警察は子供の戯言だと判断し、相手にしなかった。
しかし近隣住民の目撃情報の中に不可解なものが出てきたことが調書に残されてある。
目撃者河野登紀子(59)主婦は水前寺母と幾度か会話したことがあり、親子と面識があった。彼女は買い物を終えて帰宅する途中であり、事故現場との距離は7~8mほどの距離があった。遠めから見て水前寺親子だと気づきはしたが、声をかけるには遠かったこともあり、一度視線をそらした。
そして親子のいた方角から唐突にブレーキ音が鳴り響き、河野は振り返った。
先ほどまで親子は交差点の前で2人とも停止していた。しかし振り返ったときにはなぜか息子は交差点の中央にいた。そして交差点に大型のトラックが走ってくるのを見て河野は悲鳴と共に目を閉じた。よって事故の瞬間を目撃したわけではない。
この供述は他にも2件、3階建てマンションのベランダで洗濯物を取り込んでいた主婦と、バイクで夜勤の仕事に出勤していたヘルパーが目撃している情報と一致する。
ここからはファイルの作成者の主観が記載されている。
当時、水前寺少年は近隣でも有名なほどに奇妙な行動ばかり起こしていた。そのどれもが少年単独で行動している時に目撃されているものであり、年齢の近い少年少女との交友などまるで見受けられなかった。近隣の住民の中には彼に声をかけられたことのある人物も多数存在し、少年は年長者である相手に質問して回っていたそうだ。これが彼が異端だと呼ばれる最たる理由でもあった。
「死ぬってどんな感じ?」
「周りで誰かが死んだことある?」
「死にたいと思うことってない?」
非常に稀有な質問であるそれらを日に何度もされたことのある住民の中には少年を見るのも嫌だと主張する人間も大勢いた。
「死」というワードに異常なまでに興味を示す少年がほぼ無傷で生き残り、母親は無残な死体で事故にあった。果たしてこれは偶然だろうか。少年の殺害の自供の件もある。もしかしたら、彼は当時「死」というテーマへの探求に幼いゆえの無垢な残忍性を伴い、母親を事故の現場に連れ出したのではないだろうか。そして向かってくるトラックに相対するように交差点に飛び出し、母親がそれを静止しようとするのを確認して自身は回避したのではないか。 となれば、彼の殺人の自供は事故の当時者ではなく、事故を牽引したのは自分だと主張するための宣言であったように思う。

ファイルはそこで終了していた。
水前寺は深いため息を吐いてファイルを閉じる。
「そこに書いてあることって、ほんとなの?」
真剣なまなざしで夕子は水前寺を見つめていた。その瞳にはいくつもの感情がないまぜになったような色が浮かんでいて、水前寺自身どう答えていいか一瞬迷う。
「――事故があったのは事実だ」
ようやくその言葉を出す。
「その後のことは?」
再び水前寺は悩みの暗闇に支配される。
頬を打つ雨の勢いがさらに強くなったように感じるが、水前寺は一歩も動けない。
事実とは違う、と断じることは簡単だ。
だがそれは水前寺にはできなかった。
水前寺には事故当時の正確な記憶がない。
交差点で共に立つ母の表情や、路地に飛び出した理由、トラックが気を失いそうになるほどの速度で眼前に迫るあの光景。
しかし、ここで記憶はぷっつりと途切れている。
「――――」
事故の原因は覚えている。
あれは確かに自分の好奇心が起こした事故だった。
だからこそ、このファイルへの弁解ができない。
「あのね、」
夕子が発した言葉に水前寺は意識を戻す。死刑判決を言いわたされる被告人のような気持ちで目の前の少女を見る。 夕子は自分の目の前で両の手を合わせ、口元に当てている。そのせいでどんな表情を浮かべているか立ったままの水前寺には判断できない。
「このファイルを見て、初めは驚いたよ。正直すっごく驚いた」
「そう……だな」
その通りだと水前寺は思った。目の前の人間が母親の殺害を自供したなどと知ったら浮かぶ感情は恐怖以外のなにものでもないだろう。
だからこそ、直後に夕子が発した言葉を水前寺は即座に理解することができなかった。
「けど、最後まで読み終わって……すっごく腹が立った」
「――な、なぜ?」
「だってこんなの作った人の主観でしか書いてないじゃない!」
「いや、たしかにそうだが、」
今まで座り込んでいた夕子が急に立ち上がり、両手を震わせて水前寺が諸悪の根源であるかのようににらみ付ける。
「第一こんなの何で作るのって話でしょ!? こんなの作ったやつ性格ねじまがってる、というか絶対さっき近づいてきたあの変態男が作ったんだ!今度あいつ見かけたら首根っこひっつかまえてドブの中に叩き込んでやる!」
そこまで勢い込んで夕子は肩を震わせていた。
水前寺はしばし呆気にとられて夕子を見つめていた。しかし言葉の意味がようやく脳に侵食してくるに至り、それは笑いとなって水前寺の口から漏れた。 おかしいのは自分なのだろうか。それとも目の前で心底怒りをあらわにする少女がおかしいのだろうか。冷静な判断ではないと水前寺は思う。想像していた反応は、目の前にいる男が要注意人物の看板を取り付けられたお尋ね者として恐怖をあらわにするなり、逃げ出すなりすると思っていた。しかし夕子はそれとは真逆の反応を見せた。水前寺にはそれがまったく理解できず、理解できないその感覚は笑いとなって水前寺を襲う。 小さな笑いだったそれは徐々に大きくなり、雨音を跳ね飛ばして周囲に響き渡った。夕子がそれを聞いて頬を膨らませて水前寺のいる雨の中に飛び出してきた。
「なに笑ってんの!? 自分のことこんな風に勝手に書かれて腹が立たないの!?」
「そ、そうかもしれんが、にしても……くくっ。いや、本当に予想外だ。君はおれ以上に変わってるな」
「はあっ!?」
夕子はあからさまに顔を上気させて水前寺に詰め寄る。雨音の中で怒号と高笑いが響き渡る。夕子が水前寺に詰め寄り、訂正を求める。水前寺は笑うのをこらえるのに必死で夕子を直視することができない。それを見て夕子はさらに顔を赤くして水前寺にぽかぽかと拳をぶつける。水前寺にとって最早夕子の行動は笑いの種にしかならない。
「あたた、わ、悪かった! だから殴るのは止めたまえっ」
「なら早く訂正しなさいよっ」

先ほどまで感じていた雨の冷たさなどどこかに消えてしまっていることに水前寺は気づいた。
心の奥で何かがゆっくりと溶けていく。



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