残響
榎本が顔を上げる。 突然現れた榎本は今までのようなスーツ姿ではなかった。 まるで今から野良仕事でも始めるような、畑から逃げ出してきたような格好で、首からタオルまで下げている。 バンの扉をゆっくりと閉め、浅羽の近くまで喜色満面で近づいて来る。 浅羽は警戒しなければならなかった。 いつかのような疲労はその表情にはない。プールで始めて会った時のような、なんでも受け入れる兄貴分のような雰囲気を纏って歩いてくる。だからこその警戒だった。あのプールでの出会いがまさしく榎本との邂逅だった。 笑顔で、よくしゃべり、なんでも聞いてくれそうな様子でその実何も真実を語らず、はぐらかし、記憶を奪われた。あの笑顔こそ榎本の武器だと思う。さらに視線を下ろすと、口径が9ミリで装弾数は十六発の「いつのまにか見なれてしまった物」のグリップが作業ズボンの縁からはみ出している。すぐに動き出すべきか一瞬迷って、浅羽は相手の出方を見ることにした。 榎本は歩き続ける。 場合によって死ぬ覚悟で飛び掛らないといけないかもと思った瞬間に榎本は止まった。 遠い。 浅羽がどうあがいても届かない距離があった。 「よお、久しぶりだな」 返事もできない。 榎本はなぜここに来たのだろう。なぜ銃を身に付けているのだろう。 自分の心が驚くほどに冷静であることに、ある種の異質感を感じる。 「まぁ、感動の再開――ってわけにはいかないよな。浅羽直之君」 言葉と同時に、榎本は右手で銃を作業ズボンから引きぬき、その射線上に浅羽の姿を捉えた。 悪寒が浅羽の背筋を駆けぬける。 浅羽の表情をたっぷりと見てから、榎本はフッと息をこぼした。 「お前な。中坊が銃向けられてそんな表情すんなよ」 榎本はそう言うと、銃をおろし、右手の中で器用に銃を回転させグリップを浅羽に向けて差し出した。 「どういうことですか?」 「さぁな」 言葉と一緒に銃が飛んできた。 浅羽の足元から1mぐらいの距離に銃が落ちる。 木漏れ日の中で鈍色に輝き、確かな威圧感を生み出している。 「玉は一発。お前の自由にしろ。俺は何もしない」 そう言って榎本は肩に掛けていたタオルを右手で放り投げ、自然な構えをとった。 「拾いに行った瞬間にできる隙でも狙ってるんですか?」 「おいおい、しばらく見ない間に随分慎重になったな。そんな魂胆なら銃を投げる前に撃ってるよ」 誘いに乗るのは危険だと本能が言っている。榎本の表情は変わらない。腹の中では一点の熱が徐々に大きさを増してきている。 「ちゃんと言ってやるよ。タイコンデロガでおれを殺せなかったことを後悔してるなら、今度こそおれを殺せ。――そういうことさ」 あの日の自分を思い出す。明確な殺意を持っていたのは確かだ。腹の底の熱はあの日の殺意だった。 感情に任せた。 何も考えずに、浅羽は榎本との距離を縮め、銃を拾い上げ、構えた。 腕にズシリとした重さが伝わる。想像していたものよりも遥かに軽いことは分かっている。だがこの重さは実質的な重さじゃない。人を殺すことの出来る確かな兵器としての重さだ。それが今、手の中に収まっている。人を殺すことができる。目の前に立つ最も憎かった男を殺せる。伊里野を戦わせていた張本人だ。 自動安全装置を解除する。 狙い方を思い出した。 伊里野にシェルターで教わった照準のつけ方。見えないファンネルが伸びていき、榎本の顔を挟む。そしてガンクロスで榎本の鼻をロックオンする。照準を絞る。 榎本の表情から仮面が外れ、変わりに真剣な表情が顔面を塗り固めていく。 自分が、夏の間中逃げ続けていた覚悟、 ――血も流す。命も賭ける。 そんな覚悟をこの男は一瞬でしたのだ。 それが、浅羽には羨ましかった。 残響が辺りに広がった。
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