盗聴
「くっそ、水前寺め……」 町田は住み慣れた自室の畳の上でコンピュータの変化しない画面を見つめて苛立っていた。 ――お前は自室で待機してこれで会話を聞いてろ。窓をどうどうと開けて周囲に妙な人物がいないか時々監視してくれ。 館野と別れ、自宅のアパート前に戻ると同時に水前寺はそう言って文句を垂れ続ける町田を無視して浅羽理容店に入っていった。 奴には奴なりの計画があり、適材適所という言葉を考えれば町田が自室で待機するのは間違ってはいない。どういう会話の流れを作れば聞きだしたい情報が得られるかは町田には即座には浮かばないだろうし、台詞を覚えていっては浅羽夫妻に不審がられてしまう。 それは町田の望むことではなかった。 いや、オヤジにどう思われようと別に構わない。 4年間通いつめたといっても絶大な信頼を置いているというわけでもないし、道を挟んで向かいにあったから利用しているのであって、オヤジの腕にほれ込んだとかそういうことはまったくない。 しかしそれでも町田が4年間他の理容店に一切の浮気をせずに通いつめたのは、まさに今水前寺が会話している浅羽家の奥さんの顔を見るためだ。 名前も知らない奥さんだが、彼女はヤバイ。正直どストライクだ。もう少し前に出会っていれば、いや、今すぐにでも口説きたい。オヤジのいない間にどうにかしてみたい。いや、無論犯罪になるようなことは奥さんにも迷惑になるから絶対にしない。ただわざと隣を通過して残り香を鼻腔の隅々にまで満たしたり、レジに立つ彼女の後方に向かってわざと小銭を解き放ち、あらあらと言いながら拾ってくれる彼女の傍に自分もしゃがみこみ、スカートの裾から見えるふくらはぎの滑らかなラインを遺伝子に刻み込んだり、あわよくば風の強い日に扉を開けたまま会話して彼女のスカートがいつもより数mmめくれて膝の甲でも見れれば御の字だ。そんな貴重且つ稀有なシチュエーションを脳内にインプットした日には当分の間夜毎に違う形でアウトプットするしかなくなる。 なのに、それなのに。 ――あら水前寺くん大きくなった? ――いやいやまだまだ大きくなりますよ。 ぐおおおおおおお、代わってくれええええええ、と町田は外に声を漏らさないのに必死になりながらイヤフォンに集中した。水前寺持参のコンピュータを指示通りに操作し、イヤフォンを挿すと店内に入り込んだ水前寺の盗聴器を通じて周囲の音声が町田の耳に入ってくるのだ。 落ち着け。落ち着くのだ町田一輝22歳。 状況を察するに水前寺は軽く浅羽夫妻に挨拶をしてから、妻と世間話をしているだけだ。それだけのことを許容できなくて誠の愛妻家――彼の場合脳内に住むたくさんの妻達を愛でるという意味――を名乗る資格はない。 ――今日はどうしたの? ――ちょいと野暮用がありまして。父上はいずこに? どうも水前寺と浅羽夫妻は知り合いらしい。気軽な会話にとてつもない嫉妬が生まれるが、今は何もすることができないのが町田にはとても歯がゆい。 ――おお、水前寺くんじゃあないか。直之ならまだ学校だよ。 居たのかオヤジ、しゃべるなオヤジ、奥さんを出せオヤジと町田は思う。 ――営業中に申し訳ない。今日はお2人に用があったもので。 ――あら、そうなの? あ……ところで水前寺くん、こんな時間にここにいるってことは……サボり? 頭の中で奥さんが最後のサボり? の言葉に合わせて小首を傾げる姿を再生してしまい思わず奥さんかわいい! と野外に向けて叫んでしまいながらも2秒後になんとかイメージを振り払うことに成功した町田はそういえば、と思い至る。確かに水前寺は昨日も記事を書いている様子もなかったし、今日も朝からずっと行動を共にしている。新聞記者は取材といえば会社に一切出向かなくてもいいものなのか。それとも奥さんの言うとおりサボりか。恐らく後者だろうと町田は思う。 ――いや、お恥ずかしい。しばらくはどうしても調べないといけないことがあるもので休みがちになるかもしれません。 ――そうか、今日来たのはそれ絡みということだね。じゃあ君が早く復帰できるように協力しようじゃないか母さん。 ――ええ。 ――さすが話が早くて助かります。では不躾な質問で申し訳ないのですが、ここ最近監視されてると気づいていましたか父上? しばしの沈黙が流れる。 ――その様子だとお2人ともご存知だったようですね。 ――それは君が調べたのかい? ――ええ、夕子くんと会った際に感じた疑問だったのですが、最近色々あってまず間違いないだろうと。 ――どうします? ――うむ。水前寺くん。君に隠し事をするようですまないが、この件に関しては何もしゃべるわけにはいかないんだ。 ――そうしてください。おれとしてはお2人が知ってるかどうかの確認がしたかっただけですので。それにききたいことはそれだけではないので……。では、これを。 ――これは? ――調査内容などを話せないのはこちらも同じなので詳細は省きますが、この4人の誰か……知っている人間はいますか? 町田は、早速本題に入ったことを知った。水前寺が光道レンタルで絞った容疑者4人の顔写真を見せているのだろう。 ――ん? あれ、高橋さんじゃないか。 ――知っているんですか父上。 ――ああ、高橋商事って知らないかな。そこの跡取り息子だ。店に来る客に誘われて行ったゴルフにこの人も来ててね。歳はもう40近いんだけど結婚できなくて困ってるって嘆いてたなぁ。 高橋商事という名前は町田も知っている。園原市の中心部にどっかとそびえたつ13階建てのビルにでかでかと名前を誇示しているし、CMも見たことがある。 ――あら、こっちの2人は知ってるわ。横山さんと、えーとごめんなさい。名前は忘れたけどこの男の人。 ――こっちの女性はどこかの主婦ですか? ――ええ、少林寺で一緒なの。だんなさんはなんて名前だったかしら。確か駅前のコンビニで店長されてたと思うけど。 ――なるほど。では母上、こちらの男性は? 気のせいか、水前寺の口調に僅かながら熱がこもったような気がした。 ――えっと……。ごめんなさい。名前はわからないの。町外れの仏壇屋さんわかる? 仏壇屋……、町外れ……ああ! と町田はこっちの声は誰も聞いていないのを忘れて大きな声であれかと呟いた。 今年の夏頃にオープンした『仏』一文字のデカい広告塔が不評の仏壇屋。3月まで繁盛していた飲食店がいきなり閉店して出来たのが仏壇屋だったために近くの会社員は嘆いたのではと大学の友人達が笑っていたあの仏壇屋だ。 ――わかります。そこで働いていたということですか? ――ええ。妹のだんなのいとこの母親が亡くなったとかで仏壇を用意することになったんだけど、妹も妹のだんなも妹のだんなのいとこも妹のだんなのいとこの父親も仕事で昼間には外出できないからって私が変わりに。閉店間際だったのに丁寧に色々教えてくれたから覚えてるの。でも名札にあった名前は呼んだりしなかったから……。 途中から頭がこんがらがりそうになるが、ともかく水前寺が渡した4人の写真のうち、3人は素性が知れたようだ。果たして、素性の知れない男とは誰だったのだろう。 ――ちなみに、その仏壇店というのは閉店は何時でした? ――7時だったわ。 ――最後にもう1つ。この店の近くでこの写真の誰かを見ませんでしたか? ――ああ、この仏壇店に勤めてる人なら買い物に行く時と、少林寺の帰り道で見かけたわね。でも最近はそうでもないわね。 ――感謝します。 ――ふむ。その様子を見るとなにか掴んだんだね? ――ええ。お2人のおかげで目途は立ちました。 ――それは良かった。 水前寺は何かを掴んだらしい、簡単な挨拶をした水前寺は1分と経たないうちに町田の部屋にどかどかと獰猛な獣のような足音を立てて現れた。荒れた鼻息が興奮を抑え切れていないことを表していた。 「聞いてたな、町田!」 「うらやましい! というか恨めしい!」 水前寺の興奮などまるで意に介さず己の悲憤のすべての原因が水前寺にあるかのように町田は鼻息を飛ばす。 場の熱が収まるにはしばしの時間が必要だった。 ――いい加減話を再開しよう。 と自分の行動を棚に上げて、町田は水前寺にできるだけ冷静な口調で提案する。 水前寺が至極呆れたようにため息をついた。 「どの口が言うんだ。――まぁいい。で、さっきの会話はちゃんと全部聞いていたな?」 「ああ。容疑者も絞れたんだな」 「とりあえずはな」 水前寺の言葉を受けながら、町田は聞きたかった疑問を口にした。 「つかなんであの2人が情報持ってるってわかったんだ?」 「ん? ああ。そういえば1つ話せていなかったことがあったな。夏の間浅羽理容店を監視していたメンバー。それが誰かわかるか?」 脳内で先ほどまでいた光道レンタルでの光景が浮かぶ。 「ビデオ屋に俺と一緒に入った男がそうだろ? 監視映像からは消えてたけど」 「そうだ。だが、あの監視には最低でももう1人。関わっている軍の人間がいる」 「もう1人?」 そうだ、と水前寺が指を1本立てる。 「1人目は確かにビデオ屋にお前と一緒に入店した男だ。だが、監視の状況を冷静に再現してみると不都合が生じることに気づいたんだ。連中の徹底ぶりを考えると、日がな1日中監視は継続していただろう」 1日中、という言葉で町田は俺なら絶対飽きるな、と思う。その点に脳内の焦点が当てられたとき、1つの可能性が浮かんだ。 「交代制でやってたってことか?」 しかし、水前寺は町田の考えを一蹴する。 「その可能性はあるが、そうじゃないとおれは考えている。恐らく、お前の部屋に常駐していたのは1人。常に部屋から出なければアパートの他の住人に見られることもない。だがそうだとした場合、食料などはどうする? もちろんお前は部屋に軟禁されているから買出しにはいけない」 「補給係……みたいな人間がいるってことか」 水前寺の指がもう1本立てられる。それに合わせて水前寺の口角が上がる。 「そうだ。交代制にすれば食料調達なども兼ねられるが、監視対象の僅かな異変に反応が遅れる可能性がある。1人が徹底的に監視していた方が僅かな違和感にも気づくことができるからな。つまり、」 「その補給係をあの2人なら目撃している可能性が高いってことか」 ――うむ。と水前寺は町田に力強く頷いて見せた。 「よし、今からネットを使ってさっき浅羽夫妻から得られた情報の絞込みをする。この部屋はネットが繋がってるか?」 「もちろん。えっと、ほら。ケーブル」 床にのたうっていた通信ケーブルを拾い上げ、水前寺に向けて差し出す。 「それは自分のコンピュータに繋いでくれ。こっちはケーブルを使わん」 差し出したケーブルを押しのけ、水前寺は町田の耳にはまったままだったイヤフォンを引き抜くと、コンピュータの前に陣取ってカタカタと何かを入力しだした。 「え、でもケーブル挿さないとネット使えないだろ」 「普通ならな。ここのネット回線は軍の奴らに抑えられているかもしれん。おれは近所のネット回線を使う」 町田は大学生である。1人暮らしをして4年である。引越しもネット回線への接続もすべて自分でやってきた。だからケーブルを繋がずにネットができたのは過去のことで、今では携帯と同じように軍が電波を抑えていることも知っていた。ケーブルによる有線接続だけなら軍も防諜上管理しやすいことが利点で、もしそれにひっかかるようなことをすれば即座に軍の情報戦のどこかの課から兵士が派遣されてらりるれろだ。 だがよく考えてみればデリーズバーガーでも水前寺は盗聴のデータをじいさんに飛ばしていると言っていた。デリーズバーガーは客用にネットケーブルなんて用意していなかったことを思い出すと、水前寺はあの段階から既にネット回線を手にしていたことになる。 「あんまりおおっぴらには話すなよ。民間の甘いセキュリティでなければハッキングできんとはいえ、犯罪は犯罪 だからな」 「ええー」 「時間がないんだ。まず名前だけでいいから『高橋商事』と『家族マート園原駅前店』で検索してくれ」 「わかったよ、けど仏壇店はどうすんだ?」 「そっちはおれが調べる。間違っても検索するなよ。感づかれる危険性が高い」 水前寺は2人が座る畳の隣に、いつの間にか広げた地図の一点を指してそう答えた。地図にはただ一語。 「清水仏壇店」 と書かれていた。 「仏壇屋を調べたからって何で危険なんだよ」 不敵な笑みを浮かべながら水前寺は町田の疑問を半ば予想していたかのように即答した。 「十中八九、そこが奴らのアジトだからだ」 ――――。 思わず町田は言葉をなくしてしまう。 心のどこかでなんでそんな場所をアジトに。という言葉が浮かんでいる。しかし同時に、昨夜からの出来事を思い起こすとそう突飛な発想でもない、という考えもあった。 ただの駅の女子トイレには秘密の入り口があり、質問を投げかけられただけで昏睡状態になり、しがないレンタルビデオ屋の監視映像は改竄されていた。 街の一角の仏壇屋の店員が実は軍のスパイであることを、どうして否定できるだろう。 町田は、たった1日で『ありえない』と思っていたことが実は真実であることを知ってしまっていた。 「すぐにその仏壇店に乗り込むのか?」 無言で水前寺が首を振った。 「すぐは駄目だ。調査に恐らく2日はかかる。それに――店内に口を割るような奴は1人もいないと仮定すると……グレーのカードと……赤外線対策と、警察と……それと……」 ぶつぶつと水前寺が今後の計画を練る体制に入ったようだった。口から呪詛を吐くかのようにいくつもの聞き取れない言葉が飛び出すが、その口元には僅かではあるが笑みが浮かんでいるように町田には見えた。 「よし、町田。作戦はおれが立てるから、今夜を境に別行動を取ろう」 「それも作戦のうちか?」 「ああ。俺たちが行動を共にしていることを連中に悟られていないという確証が得られたら実行に移る。作戦内容の通達は気づかれない方法でこちらから送る」 早口にそうまくし立てる水前寺を見て、自然と町田も眼前の水前寺と同じ表情をしていた。 「楽しそうだな」 「そう見えるか?」 「見える」 「こういう作戦を練るのは確かにいくつになっても楽しいのかもな」 あごに僅かに生えた髭をさすりながら水前寺は今日一番の笑顔を見せた。 くく、と町田も水前寺につられて笑みをこぼす。 ――いくつになっても、って。あんたいくつなんだよ? あえて口にしなかった疑問だったが、町田はこの質問をしなかったことを後にとてつもなく後悔するのだった。
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