記憶
「……記憶がなんだって?」 動揺を完全に隠すことは難しい。少しだけ上ずった声が出てしまうのを水前寺は止めることができなかった。 「いやさ、おれどうも記憶喪失みたいなんだわ」 町田の様子を見るに、水前寺の動揺には気づいていないようだった。 「なぜそう思う」 「9月の初めからさ、最近までの記憶がすっぽり削げ落ちてんだ。大学のダチに聞いても俺とは顔合わせなかったらしいし」 「講義はどうしてたんだ?」 「全部自主休講。というか俺卒業に必要な単位とり終わってるから大学行く必要あんまないわけ。ただ講義まったく入れないのも暇だから3つ講義入れてたんだけど、夏休み明けからどの講義にも不参加。それにほら、戦争が始まったから途中から大学自体臨時休校になったし」 「…………1人暮らしか?」 「そ。親も一切連絡してなかったから確認しようがない」 水前寺は沈めていた体を持ち上げ、ライトを町田に向けてその表情を確認する。どうも嘘をついているようにも見えない。 「その話、本当なのか」 「ほんとさ。でもやっぱ2ヶ月近くの記憶がすっぽり抜けてるのって怖くてさ。色々調べてんの」 「病院には?」 「行ってない。これは俺の単なる想像だけどさ、やっぱ俺何か「知っちゃいけないこと」を知っちゃったんだと思うんだよ。だから記憶も消されてさ。病院に行ったとしても『やばいやつらに記憶消されました、なんとかしてください』って頼んだらその医者も敵とグルでさ。『あいつ記憶戻そうとしてますよ』『そうか、やっぱり始末しよう』みたいな流れになって消されるんじゃないかと思ってさ。うかつに話せねーと思って」 冗談めかした町田の口調に、一笑に伏せようと思ったが、どうにも水前寺にはすべてを笑うことはできなかった。その可能性は一度自身も考えたことがあったからだ。町田はわけもわからない存在を「敵」と表現しているが、水前寺はその「敵」が軍の人間だということを知っている。暗部に当たる組織であることが明白でも、それは公然と政府から存在を認められているのが恐ろしい。国賊と判断されれば医者だろうが警察だろうが連携して排除するようなシステムが既に構築されているのではないか。 その仮説は実証には到っていないが、否定することはできない。 「笑わないのかよ」 「笑ってほしかったのか?」 町田は急にまじめになったような顔をして、 「なんかさ、どうしても気になることがあるんだよ。消された2ヶ月の間に何があったのかはわかんね。でも何か忘れちゃいけないことがあったような気がするんだ」 「だからってなぜここに?」 「――園原市っていわく付きの場所って結構あるだろ?」 「ここもそうだな」 表情を変えることなく町田が頷く。 「大体が根も葉もない噂だとは思ってる。けど火のないところに煙は立たないとも言うだろ? 変な噂が立つには変な出来事が実際にあってもおかしくはないと思うんだ。だから記憶がなくなってることに気づいた日からずっと園原市の怪奇現象を追ってたんだ。ほら、突然の失踪事件にも敵が関わってるんならただの失踪じゃなくて誘拐だろ? 俺も9月になると同時にやつらに誘拐されて失踪事件になってたようなもんだし」 「違いは周囲の人間が気づかなかっただけ、か」 「そういうこと」 あまり理にかなった行動ではないと水前寺は思う。しかし、まったく情報がない中に押し込まれたとしたら、自分も似たような方法を取ったように思う。方向性だけは間違っていない。記憶を消されるなどという荒唐無稽な話を追いかけるには、自分もその側面に向けて足を進める必要があるからだ。蛇の道は蛇というやつだ。 水前寺の中で思考はさらに渦巻く。 この男を信用していいかどうかは正直わからない。何か引っかかる部分があるのは確かだが、それがどちらに事を運ばすのかはまだ結論づけることはできそうもなかった。 だが――。 この男の話が真実だとしたら、貴重な情報源であることは確かだ。 記憶を消されたという共通点があるのだとしたら、水前寺にはこの男を調査する意義が出てくる。自分とは異なったケース。自分よりも長い期間消された記憶。この男は何を知ってしまったがために記憶を消されたのか。どうやって記憶を消されたのか。 自分の周辺を調べても、手がかりになるようなものはあのグレーのカードと、この市川大門駅の情報ぐらいしかない。 この2つから軍の全貌を知ることはできないと水前寺は思っている。そこまで思考が進んだ上でふと、 「町田と言ったか。記憶が消えている期間の正確な日付は覚えているか?」 「記憶を消される前に覚えてる最後の日と、記憶が消えてることに気づいた最初の日ってこと?」 「そうだ」 「前者は正直わかんね。多分9月に入ってからだと思うけど、うちカレンダーも置いてないし。けど後者ははっきり覚えてるよ。10月27日だ」 脳内でめくるタイプのカレンダーが何枚もちぎられていく。 9月の初めといえば、伊里野特派員が転校してきた時期と重なり、さらに目が覚めた時期は自分が軍に解放された時期と重なる。日にちとしては2週間弱、この男と自分は記憶が消えている時期に重なりがある。もしかすると、軍に拉致されていた自分の傍で、この男も拉致されていたのだろうか。何かの実験か、ただの偶然か。 いや、ただの偶然と投げるには条件がそろいすぎている。 もう少しこの男を観察する必要があると水前寺は決定する。 「町田、これは確定情報だが君の記憶を消したのは自衛軍だ」 町田は明確に表情を変えた。その表情には演技の色は見えない。 「米空軍が関わっているのかはわからん。しかし記憶を消されたという人間をおれも知っているし、今日ここに来たのはそいつの持っていた情報から割り出した軍の施設がここだからだ。記憶を取り戻すには、」 「記憶を消したやつらに聞けばいい?」 「そういうことだ」 水前寺が邪悪な笑みを浮かべる。 この男、初見で抱く印象に反して頭は悪くないらしい。ここに到ったのが偶然にしろなんにしろ、たどり着いたのだから運にも恵まれている。 「ここが外れだった場合、おれにはもう追うべき謎は限られている。そこで提案なんだが、君の記憶を取り戻す手伝いがしたい」 水前寺のこの提案に町田は腕を組んでしばし黙考する。そして表情に明るみが増し、 「なるほどね。記憶をなくした男を調べれば糸口は増えるってことか。しかも記憶を消された人間が動けば敵も動く。俺はエサにもなるし手がかりも増えて一石二鳥と」 「否定はしない。しかし個人で記憶を取り戻そうとするには限界があるだろう?」 「……わかった。こっちもなんの手がかりもなくて途方に暮れてたとこだ」 「では意見は一致したと見ていいか」 「おう」 2人の男は互いに手を差し出すことも、肩を抱くこともしなかったが、同じような笑みを浮かべてこれを契約の締結とした。 「では早速だが町田。このコンソールがなんだかわかるか」 「秘密基地への入り口」 「基地かどうかはわからんが何かの秘密への入り口であるのは確かだ。この軍手をはめてくれ。予備のがあるから」 「よしきた」 水前寺は突如できた協力者に全幅の信頼など置いていない。むしろ先ほど町田が自身で発したエサであるとの認識のほうがはるかに強い。町田は自身をエサと表現したが、水前寺にとって見ればその側面のほかに町田自身が軍の関係者であるとの認識を忘れてはいない。協力体制を敷いて活動すれば、いつかぼろを出すかもしれない。エサが情報源になることは既に今実証されているのだ。 「なぁ水前寺さんよ。これ、カードを通すスリットみたいなのがあるんだけど」 「ああ、カードは既に手元にある」 「じゃあそれ使えば、」 「今はダメだ。このカードを通した途端に侵入している事実が軍に伝わる。一度似たような状況に出くわしてるから間違いない。キーがあるんだからまずはパスコードを抑える」 「了解。でもどうやってパスコード調べるんだ?」 町田がコンソールを観察する間、水前寺は自分のバッグから必要なものを探し出していた。 「これを使う」 「なにその粉? ヤク?」 「ここでそんなもん使う意味があるか。埃を検出するために使うんだ」 「ホコリ? ホコリってあの空気中の埃?」 「そうだ」 水前寺は説明しながら機材を次々と用意する。 「素人目線の質問で悪いんだけどさ、こういうコード調べるのって指紋を検出したりするもんじゃないの? あと暗号解析機みたいなのとか」 「解析機は後で使う。おれが持ってきた特別製を使えば解析はできるが時間がかかりすぎる」 「そんなに?」 「当たり前だ。そのテンキーのタイプならいざ知らず、アルファベットタイプにテンキーの組み合わせなんだぞ。コードが8桁だとしても2800億の組み合わせだぞ。そんな処理待ってられん。どのボタンが使われてるか判別するだけで劇的に処理は減算されるんだ。そっちの手間のほうがいい」 おー、と気の抜けた感慨にふけるような声が町田の口から出る。 水前寺は呆気に取られながら作業に没頭する。 「じゃあさ、指紋を検出しないのは?」 「今手にはめてるのはなんだ?」 「あ」 「そういうことだ。やつらが指紋なんか残すはずがない。こういう場所では常に手袋か何かをしているさ」 そこで埃の検出なのだ。指紋の対策をとっているならわざわざキーを上から布などで掃除する必要がない。常に押すボタンと、押されないボタンでは埃のたまり具合がまるで違う。それを水前寺が持参したアルミニウムと亜鉛の化合物の粉と、検出器を使えば逃すことはない。 検出器の結果は5つのアルファベットと1つの数字が他のものに比べると圧倒的に埃が少ない。 「あれ、6桁なんだ」 「かもしれんし、重複するものがあるかもしれない」 「なるほど」 「後はこれの解析だけだ。500万までぐらいまで組み合わせも減ったはず。恐らく3分というところだ」 「うへぇ、6つに絞ってもそんなにあるのな」 町田の嘆きを他所に、水前寺はコンソールに手を伸ばす。起動ボタンのようなものにタッチするが反応がない。やはり、カードをスリットに通さなければ無駄なのだろう。 「やっぱカード通さないと無理なんじゃないの?」 背中から覗き込むように町田が接近してくる。 「だな。よし、カードを通したら即、軍に知られる。やつらが近くに潜んでなければ解析までには時間は充分なはずだ。町田、外に出て周囲を見張っていてくれ」 「あいよ」 軽い足取りで町田が水前寺の傍を離れていく。 水前寺はそれを鏡越しに見ながら町田の姿が完全に見えなくなってからデニムに手をいれ、カードを取り出した。 わざわざ町田を追い出す必要はないかもしれない。しかし、このカードの存在を知っているのと目にしているのでは警戒の度合いがまるで違う。どんな色をしているか、どんな形状なのか。カードと言うだけでは判別できないからだ。 まだ町田という男を完全に信頼しているわけでもない、水前寺はそう思いながらカードをスリットに通す。 コンソールが起動する。 解析機をコンソールに接続してブルートフォースを仕掛ける。 突破できれば即終了するが、最長で3分もかかる。 水前寺は腰を上げ、外に出した町田が不審な行動を取っていないか確認するために外へ向かう。 「町田」 小声で町田を探す声を上げるがその姿は見えない。 ライトを使うわけにもいかず、慣れない夜目をこらして辺りを見回す。 ――、ぬかったか。 やはりあいつは軍の刺客だったのだろうか。水前寺の行動を確認してから軍に報告し、現場を押さえる。 ありがちだが効果的な方法だ。物証を抑えられては今度こそ記憶だけではすまないかもしれない。 水前寺は即座にきびすを返し、即時撤退ができる準備をしようと思った。その矢先に、 「あれ、もう解析終わった?」 町田の声がして、左に視線を向けると男子トイレから出てくる町田の姿が浮かぶ。雨は上がったもののまだ曇天の夜空は街灯以上には光を落としてくれない。 「見張れと言っただろう」 「いや、うんこはマジ無理。我慢したら俺死んじゃうからさ」 がっくりと肩を落とし、水前寺は周囲を見回して無言で女子トイレに戻る。 例のコンソールに近づくと同時に解析完了の音が響く。 解析機に表示されているNAN2AYEDを叩く。 コンソールには「certification」の文字が表示される。 「よし」 ロックが解除され、鏡が手前にずれ、さらに横にスライドする。鏡に触れてみるとその厚みは軽く20mmを超えている。どうやら鏡に鉄板を仕込んで突破を防いでいたようだ。 闇に包まれた大穴が水前寺と町田の目の前に現れた。 「すげぇ」 町田のため息を背中に受けながら水前寺は機材を片付け、バッグを背負いなおす。 ペンライトを闇に向け、足を進める。 しかし、水前寺は即座に足を止めた。 後ろからついてこようとしていた町田が水前寺に接触する直前で停止する。 「なんだ? どうしたんだよ」 「くそっ」 水前寺の舌打ちが女子トイレの開け放たれた窓から闇夜に吸い込まれていった。
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