再会の夏
今日は6月24日。全世界的に、UFOの日だ。 浅羽はろくに休憩もとらず、作業に没頭する。 べたつく汗がシャツに張り付き、榎本から借りたタオルも汗まみれになっていた。 昨夜は疲労の限界が来て、いつの間にか寝てしまった。 それにしても、と浅羽は思う。 まだ6月の24日だというのに、この猛暑はなんだ。少なくとも去年の今ごろはこんな暑さは感じられなかった。晶穂だって去年のこの日は冬服をきていたし、自分もそのことに疑問など感じなかった。ススキや葉っぱで身体を切らないように長袖長ズボンという格好で来た今年の自分が愚かに思える。 昨日の自分が目の前にいたら張り倒してやる所だ。それと天気予報の天然パーマ親父もだ。どうして当たりもしない天気予報をあいつ等は堂々と解説できるのだ。「今の状況を見ても明日の天気はまだわからないけど、とりあえず晴れでいいだろう」とか考えているのではないか。もしそんないい加減な考えで天気を決めているのなら、せめてそのことを伝えればよいのだ。「明日の天気は今の状況では判断しにくく、正直わからないのではありますけれど、とりあえず晴れにしておくので、天気のほうは各自ご判断ください」とでも伝えろ。それで天気予報士という職業が崩壊しようが知ったことではない。予報された通りの天気を信じて外れられるよりよっぽどマシだ。各自が判断して失敗してもそれは自分のせいなのだから、天気予報士が避難を浴びながら天気予報を続けるということはなくなるだろう。 だが、そんなことを考えながらも自分は天気予報が外れたことをとても嬉しく思うのだ。去年のこの日、『UFOの夏』が始まった日のように、晴れ渡った空の下でミステリーサークルを完成させたかった。広く伸びていく青空を見上げる。 ――いい天気だ。 気持ちのいい天気に心を和ませていた浅羽に、灼熱の業火のような暑さを思い出させたのは榎本が乗っていたバンに群がる、見るだけで暑苦しい黒服の群れだった。 榎本が乗っていたバンの近くが黒で満たされている。その中にいるからだろう、映えるように写し出される白いバンが、とてつもない勢いでドッカンドッカン揺れている。周囲の黒服が祝砲を上げるように叫んでいる。 あれで本当に秘密なんて守れるのかと心配になるぐらいのはしゃぎ具合だ。 榎本は何をしているのだろう。 はたから見るとその情景は邪神を祭る暗黒宗教のように見えなくもない。いま、邪神からの啓示を榎本はバンの中で受けているのだろうか。そしてその周りの黒服たちは自らの血を捧げて榎本の啓示を待ち望んでいるのだろうか。 浅羽はとりつかれた哀れな中年たちに、かわいそうなものを見るような目線だけを送って作業に戻った。 次第に形を成していくミステリーサークルの作成に、浅羽は空腹も忘れて作業に没頭する。 「もう一息だ」 既に何度目になったかわからないほどの作業に堪えた板きれは、赤色のペンキがはげ、黒ずんだ土色になっている。それでも浅羽はロープを手繰り寄せ、また新たなススキを踏みつける。 あと、一歩。 あと一歩だ。 この一歩を踏み出せば、ミステリーサークルは完成する。 そして、同時にあの夏も終わる。 浅羽直之が、伊里野加奈と出会って、そして別れたUFOの夏が終わる。夏は、永遠に終わらないと思っていた。夏さえ終わらなければ、伊里野をいつまでも繋ぎ止めてくれると信じていた。でも、現実は優しくはなかった。大人たちは甘くはなかった。その大人たちを殺してやりたいほど憎んだこともあった。だがそれももういいのだ。 たったひとときの出会いだとしても、伊里野を出会わせてくれたのはあの人達のおかげだ。あの人たちの作戦がなければ伊里野とは出会えなかっただろう。 結末は確かに辛かった。 だが逃げ出すことは許されない。変化も、悲しみも、孤独も、辛い現実も全部受け入れる。全てをあるがままに受け止めなくてはならない。 そうでなければ終わらせることはできない。 そうでなければ再び始めることはできない。 新しい夏を、これからも歩き続ける道を進むことはできない。 歩こう。 この一歩が。今、踏み出すこの一歩が、新しい始まりだと信じて――。 浅羽直之は最後の一歩を踏み出すと同時に、完成したミステリーサークルの隣に背中から倒れる。そして両手をかざし、天空に向かって大砲のように叫んだ。 「できたぁ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」 声に驚いたのは鳥や、虫たちだけではない。 微かに吹いていた夏風はぴたりと止んでしまい、空に浮かんでいた雲は山の陰に隠れてしまった。 隣には一体いつ来たのか、榎本が浅羽を見下ろしていた。その姿は昨日までの野良仕事帰りの格好ではない。スーツを肩に引っ掛けて、ネクタイもしないで笑っている榎本は初めてプールで会った日のことを思い起こさせた。しかし、あの日に感じたすり切れたような雰囲気はもうなかった。 「ようやく、完成したな」 言うと同時に榎本も浅羽の隣に倒れこむ。 「うん」 晴れやかな疲労ととてつもない達成感が身体を包む。それは今までに感じたことのないほど清々しいものだった。至高の瞬間、とはこういうことを言うのか。 「いやぁまいった。正直これだけの規模のミステリーサークルを一人で完成させるとは思ってなかった。途中で投げ出さないように監視するつもりだったが、お前ろくに休憩も取らねぇんだからな。逆にこっちが疲れちまったよ」 浅羽の頭にはかつて水前寺が呟いた一言が甦る。 「――根性が違うからね」 「しまらねぇ男はこれで返上、だな」 「そうだったらいいんだけどね」 腕を顔に持ち上げて日除けにする。 熱い。全身が燃えるように熱かった。 榎本は両手を頭の後ろで組み、照り付ける太陽を見つめている 「なんだ、歯切れの悪い返事だな」 「自分が変わったかどうかなんてわからないよ。タイコンデロガにいた時の自分とは考え方もまるっきり変わったとは思うけど」 「それがわかってるんなら、お前は変わったってことだよ」 「そうかな…。でも――まぁ、うん。そうかもね」 榎本に認められたことが心からうれしかった。 「夏を、終わらせることができたのか」 心から頷くことができた。 「うん」 「そうか……」 沈黙が二人の間を走りまわる。 しかし今回の沈黙は決して重苦しいものではなく、それぞれが終わった夏を思い出し、新しい夏に想いを馳せる。そんな沈黙だった。 沈黙を破ったのは榎本の無線機だった。 「榎本だ。……ああ。……何?。……ああ、わかった」 ざっという短い音と共に無線機が榎本の胸ポケットにしまわれた。 榎本は一度だけ長いため息をつくと、 「浅羽」 榎本の言葉には、いつかのようなかげりはない。 「なに?」 「昨日の質問だが、あれは忘れてくれ。ただ、代わりに一つ答えてくれるか?」 浅羽は倒れていた体を起こす。 榎本の表情が変わる。緊張の色が素人目にでもはっきりとわかった。榎本は幾度もその質問を頭で反芻し、言葉を選ぼうとして、何度も思考の迷路を迷いに迷って、やはり正直に聞くことしかできないと思って、消えいるような声で尋ねた。 「今でも、伊里野のことが好きか」 答えは決まっていた。 「好きだよ――。うん、今でも大好きだ」 口に出すのは流石に恥ずかしい。 だが、言葉には魔力がある。その疑問は10月26日から今の今まで一度も浮かんだことはなかったが、ごく当たり前のように浮かんで、ごく自然に口から出て、全身に駆け巡った。照れ隠しに大袈裟な仕草でぶっ倒れる。 「そっか」 榎本は心の底から沸き立つ笑顔をどうしても抑えることができない。 「安心した」 榎本は心からよかったと思った。 浅羽は、ミステリーサークルを一つの区切りとするつもりだった。その目的は今の答えで全てわかった。 今の今まで、不安でたまらなかった。 浅羽の足枷にはなりたくないというのは情けなくも薄っぺらい大人の言い訳だったし、場合によっては自分は一生浅羽の前には立たないという選択肢もあった。 だがそれでは駄目だと言われた。 浅羽の前に姿を表そうと、ようやく決心がついたのはあの男のせいだ。 いつも傲慢で、人を敬おうとはせず、しかし見下しもしない。 そんな男が見せた本心。 それが榎本に決心させた。 ――最後の可能性に賭けてみようと。 決心して本当によかった。 浅羽は確かに終わらせようとしていた。 過ぎ去った夏を終わらせて、新しい夏を始めようとしていた。 だが、浅羽の隣には伊里野の場所があった。 忘れることなく、そしてそれにすがるようなこともせず、伊里野の居場所を空けてくれていた。 「さて、と」 榎本が立ち上がる。 「それじゃ行くわ」 「うん」 よかった、と浅羽は心から思った。 お互いが笑って別れを言える。それは自分達にとってとても貴重なものだ。 自分はこれから旅に出る。 伊里野を探す旅だ。 いつ帰るかは決めてない。 もしかしたら、これが最後の別れになるかもしれない。 もう、一生会うことはないかもしれない。だがそう思う反面、きっと会えると確信している自分がいた。 伊里野を大切に想う榎本となら、笑って別れて、そしてまた笑って再会することが出来る。だから、 「またね」 榎本もまた、浅羽との再会を願っていた。 笑って再会できる、その瞬間が近いうちに必ず起こる気がしていた。 心の中に浮かぶのは再会の瞬間だ。浅羽は榎本に文句をいい、それを自分が受け流し、そしてその横には、 「ああ、またな。それと、妹をよろしくな」 浅羽に最後の頼みを告げた後、榎本はさらに高みにある一本杉を目指し、緩やかな斜面を歩き出した。 榎本の言葉が、浅羽の身体を弛緩させる。 榎本が言った『妹』とは誰なのか。 浅羽の考え付く限りではたった一人しか浮かばない。 一人の少女しか、心当たりはない。 脳が神経伝達物質を送るのを停止している。 心臓が止まりそうになる。 いや、もしかしたら止まったのかもしれない。 浅羽は身体をゆっくり、ゆっくりと起こす、 突風が来た。 何とか腕をついて弛緩してしまった身体を支える。 そして、UFOが現れた。 UFOは不規則な動きで空をスキップする。 突然UFOの軌道が変わり、浅羽の胸に飛び込んできた。 歴史的な瞬間だった。 UFOマニアが待ち望んだ瞬間。未知との遭遇。そんな瞬間だった。 見たことがある。と浅羽は思った。 夏になればよく見かけたそれは、道端で農作業をしているおっさんの頭に載っていたり、プールの監視員のおっさんの頭に載っていたり、田舎のじいちゃんの頭の上に載っているものだ。 UFOの正体は――麦わら帽子だった。 ピンク色のリボンがついていて、それが風に揺れていた。 そして、もう一つ、揺れているものがあった。 麦わら帽子に引っかかって揺れているそれは、一本の髪の毛だ。 長い、長い、そしてつやのある髪の毛。体中に電気が流れる。 浅羽は、こんな綺麗な髪の毛をしている人を他には知らない。 一人の少女しか、心当たりはない。 顔を上げた。 ミステリーサークルは小高い丘の上にある。 そこから下に群がる広大なススキを、浅羽の位置からは簡単に見渡せた。 スポーツ公園に通じる車道、榎本のバンが止めてあった場所、いつのまにか消えているバン。 そしてそこから2時の方角、3メートルの距離。 そこに彼女は居た。 先程の突風は既に弱まり、穏やかな風となって少女の髪を揺らす。その髪は以前のように白くはなく、初めて切った時ぐらいにまで伸びている。園原中学の制服をきっちりと着込み、その腕で抱えているのは見覚えのあるちょびひげを生やした猫。 震える足をなんとか抑え付けて立ち上がる。 涙があふれる。 現実を、事実と認識できない。 しかし、風に揺れる髪が、ほんのりと赤い頬が、耳に届いた猫の鳴き声が。 浅羽の心を現実に繋いだ。 繋がった部分から、徐々にぬくもりが広がっていく。 ぬくもりは浅羽を包み込み、震える足をゆっくりと動かす。 少女もまた、一歩を踏み出した。 猫がその腕の中から飛び降りる。 少女が、走り出す。 浅羽も、走り出した。 二人の距離が縮まるにつれて、浅羽の涙腺が決壊していく。 近づいてくる少女の瞳にも、涙が溢れている。 そのことが、さらに浅羽の足を速め、多くの涙が溢れた。 視界がかすむ。 それでも浅羽にはしっかりと見えた。 こちらに向かって走ってくる少女の姿が。 喉が震える。声帯がうまく動かない。 それでも、浅羽は叫んだ。 ずっと呼びたかった少女の名前を。 ずっと探していた少女の名前を。 少女も――伊里野もずっと会いたくて、呼びたかった名前を叫ぶ。 二人の影は徐々に近づき、夏の日差しが照りつける中で強く、強く重なり合った。
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