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「浅羽のりょうしんにあいさつにいく」
伊里野は浅羽の顔から視線を逸らしながら早口にそう言った。

絶対に聞き間違いだと思った。
伊里野が言っていることを一度反芻してなお浅羽はそう思った。

これからどうする?と何の覚悟もなしに尋ねたらそう帰ってきた。
もしかして、伊里野は冗談を言ったのだろうか。
誰かの入れ知恵とか。そう考えると椎名真由美辺りが非常に怪しい。
いかにもこういったことを伊里野にさせそうだし、しかも伊里野は情報を鵜呑みにしやすい傾向がある。なんとなく、笑顔で高笑いをしている椎名の姿が目に浮かんだ。
最後に椎名に会ったのはいつのことだったか。
椎名から届いた手紙を思い出す。

あの日、冬休みの最初の日にあの手紙を読んだことで自分は救われたのだ。
あの日までの自分は、途方もない怒りに身をゆだねて、ただ呪いのように榎本や椎名を、そして自分を憎んだ。
一生呪ってやるつもりだった。
どれだけ辛い人生を今後歩むことになっても同情するつもりはなかった。
だがその感情を誰にも話せず、わかってくれそうな相手もおらず、ただ自分の中でめぐり続ける怨嗟の声は、自分自身を傷つけていった。誰しも感情を抑えることは難しい。しかし、ひとつの感情を抱き続けることもまた難しい。時間が経ち、怒りは記憶と共に少しずつ薄れていき、それがどうしようもなく悲しかった。
そして怒りはただの感傷でしかなく、それが相手に届かないことに気づいたとき、残ったのは憎しみの炎に焼かれ尽くされた燃えかすの精神だけだった。
それを救ってくれたのが、あの手紙だ。

「aliive」

それは英語の授業で何度も見たり書いたりしながらも、なんの感情も浮かばない単語にすぎなかった。
しかし、それはあの日、あの時間、あの瞬間まで待ち望んでいたただひとつだけの言葉だった。 「生きて」とか、「生きる」とか、色んな捉え方があったと思う。
複数の意味を持つ単語なだけに、それは明快なものではない。
しかし、それを浅羽は「生きている」と訳した。
誰のことか、なんて考えもしなかった。
それはやっと手に入れた答えだったのだ。
伊里野は今も生きているのか、という疑問に対しての。
答えを持った人物が浅羽の前に一生現れない可能性があった。だからこそ怖かった。伊里野との思い出は、自分だけで噛み締めるだけでは記憶に留めることはできない。写真であれ、酒の席の話題であれ、自分以外の何かが思い出として共有されてこそ形を失わないのだ。
あの夏の出来事の一部始終を知っているのがただ自分だけになってしまえば、伊里野の存在は時間とともに薄れていく。それをどうにか防ぎたかった。だからこそ、あのたったひとつの単語が、
「浅羽」
伊里野の顔がすぐ傍にあった。驚いて飛びのくと伊里野も少し驚いた表情で浅羽を見ている。
頭を現在に呼び戻す。
過程はどうかはわからない。しかしどういう理由であれ伊里野は両親に会おうとしている。それは伊里野自身の意志かどうかは聞く必要がある。
「伊里野、それ本気で言ってる?」
こくこくと伊里野は何度も頷く。
「でもさ、なんで伊里野が僕の親に挨拶に行くの?」
伊里野は首をかしげ、どう言おうか迷っているように見えた。かなりの間逡巡し、これが正解かどうかわからないけど、といった表情で
「お世話になるから」

具体的な話を聞いてみると、なんとなく背景が見えてきた。まず伊里野は未だ軍属の身であり、同時にその庇護の元にいる。そうしなければ軍事機密の集大成である伊里野の今後の治療に軍が関与することができなくなるし、万が一外部の敵からの干渉があった時、民間人であるよりも軍属であった方が対処しやすい。なにしろ伊里野はいつでも背中にどでかいコンバットナイフを背負っているような子だ。そんな子の前では過去に日本で制定されていた銃刀法など真っ青である。
しかし、軍属であるとひとつ障害が残る。それは伊里野がどこに住むか、という問題だ。
園原基地から軍人は撤退する。
それは同時に園原基地を民間に委託するということでもある。
しかるべき処置が終われば施設は一部を除いて民間に明け渡され、軍人が使っていた広大な居住スペースは民間で有効利用される。 そして伊里野が軍属である以上、園原基地から撤退する軍に追従して、園原から離れないといけない。駐留する軍人もいるにはいるが、園原基地外の市内に居を構えるケースも多く、基地内は限られたスペースしか使うことができない。
「だから浅羽のいえに住むことになったの」
まったく点と点が繋がった気がしなかった。園原基地が撤退する。もちろん知っている。軍人が市外に出ることも知っている。そのために客が減ると父も嘆いていたのだから。しかし、そこでなぜ浅羽家が出てくるのか。やっぱり理解できなかった。確実に裏で糸を引いている人間がいるのを浅羽は気づかずに入られなかった。
伊里野は不安そうな表情で
「いやだった?」
首が自動的にぶんぶんと横に動く。
「嫌じゃない! 嫌じゃないし、ダメでも……ない、と思う」
嫌ではない。嫌であるはずがない。むしろ嬉しい。飛び上がって奇声を上げそうになるぐらい嬉しい。だがそれには超えないといけない壁が多すぎるから考えてしまっただけだ。なぜならその許可を出す権限を持っているのは自分ではない。
こういった家庭のことならば父というよりむしろ母の許可だろうか。夕子はどういう反応を示すか想像もできない。
それでも。
頭の中で「alive」という単語を何度も思い浮かべる。
「わかった。行こう」

時計がもうすぐ11時を指す。
日差しは絶えず浅羽と伊里野を照らし付ける。
二人で歩き続け、途中何度も休憩しながら進む。
長いアスファルトの道を歩き続け、今まで何度も通り抜けた道を新鮮な気持ちで歩いていく。

家が見えてきた。
既にあらかたの荷物は引越し先に送ってしまったようで、15年過ごしてきた家はもう「浅羽理容店」ではなくなっていた。
家の前では父が厳かな表情で腕を組んで立っている。
母は柔らかな表情で手をひらひらと振っている。
夕子はむすっとした表情で、そっぽを向いているが気にはなっているようでチラチラと視線をこちらに向けている。
家の前で荷台が満載になった軽トラが一台止まっていた。既に引越しの準備はほぼ終了しているようであり、あとは家族といくつかの軽い荷物を運べば準備完了するようだ。しかし、それにしてもどこに引っ越すことになったのだろう。浅羽は今日までその引越し先を聞いていなかった。
突然、隣を歩いていた伊里野が立ち止まった。
振り返ると、麦わら帽子を目深にかぶり直し、二の足を踏めずにいる。
家の前で待つ家族と、すっかり停止してしまった伊里野を交互に見る。
さて、どこから説明すればいいのやら。
溜めていた息を全力で吐き尽くし、ぽんと伊里野の麦わら帽子に手をのせる。
伊里野が恐る恐る顔をあげた。
不安なのは浅羽も同じだ。
だが。
だからこそ、浅羽は満面の笑みを伊里野に向けた。
「ぼくに任せて」


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