暗中
もう追っ手は来ないようだ。 水前寺は園原市の海岸線に沿って進んでいた。 時刻はもうすぐ深夜の2時になる。 町田と別れてから、パトカーとは何度も遭遇しかけたものの、バンは消えさったかのようにその姿を消した。想像通りの結果だ。 カブのガソリンの量も心もとなくなってきたが、近くにガソリンスタンドなどあっただろうか。もし見つからなければ押して行くだけのことだが、目的地までの行程を考えると日が昇ってしまうかもしれない。パトカーに追跡されることも考えると次の行動に移るべきだった。 周囲に目を凝らして安全を確認し、カブのスピードを緩める。 波濤がテトラポットに当たる音がすぐ傍で聞こえる。 道路と隣接する堤防から海を見つめると、雲間から指す月明かりが稜線の彼方で降り注いでいる。しかし海上自衛軍の巡廻船や海上基地のライトが強すぎて月明かりは頼りない。 水前寺は堤防が途切れている部分にまでカブを推し進めると、そのままカブごと堤防に乗り上げる。 ペンライトのスイッチを入れ、電波感知器を作動させた。 液晶画面では、1m以内の距離に電波を発するものの存在をありありと報告している。 「さて――」 ――――さて。 発信機を見つけなければならないのだが、果たして見つけたとしても外していいものか。 奴らが発信機を自分が見つけたときの対処を何もしていないという仮定は楽観的すぎるだろうか。例えば、外した瞬間電子リンクさせていた燃料タンクに信号を飛ばして爆発させるとか。――、いや。それをするには奴らにとってのデメリットが多すぎる。カードの存在をあやふやにしたくないだろうから、そういう類の強制排除は実行されないだろう。 「うむ」 水前寺は気を取り直してカブに取り付けられているはずの発信機を求めて地面に顔までつけて探索を開始した。 座席下収納、ライト、ライトカバーの中、ハンドルグリップの裏、ブレーキレバーの内側、メーター、車体裏、車体側面、タイヤと車体の隙間。 ものの2分とかからず、水前寺は発信機を発見することができた。 水前寺の予想したとおり、超がつくほどの小型タイプのもので、接着面は爪を立てただけでは剥がれないほど強力な磁石で貼り付けられていた。工具を使って何とか剥がし終わり発信機を観察すると自家発電ができるタイプではなく、電池式のものだとわかった。どれぐらい長持ちするのか解析したくはあったが今から向かう場所を知られるのはまずい。 なにより怒鳴られる。 無用な争いは水前寺の好むところではなかった。 遠くから大きな排気音がする。 海岸線道路を右に左に折れ曲がりながら迫ってくるのは「ヤマツ運輸」と表記された大型トラックだ。 水前寺はトラックの接近を待ち、近づいたのを見計らって堤防の上でおおきく振りかぶって発信機を投げた。発信機は狙い通りトラックの金属コンテナに張り付き、そのままスピードを緩めることなく通り過ぎていった。 初めは発信機を海に捨てるつもりだった。 しかし、自分と町田の会話を奴らが盗聴していたという前提があることに気づき、作戦を変えた。奴らは盗聴器を通して自分が発信機の存在に気づいていることを知ったはずだ。なら、当然発信機は然る後に破棄されると奴らは考えているだろう。だが実際はあのトラックに張り付いたままどこか遠くに発信機は生きたまま移動を続ける。 奴らはこれが自分の罠だと気づきはするだろうが、念のために発信機を追う。細部を抑えるという点においては奴らはぬかりない。それに人員を割いても割かれなくても、自分にとってはなんのデメリットもない。 目的地に向かう前に、計画に落ち度はないか再度検討する必要があった。 堤防の縁に座り、波の音にしばし耳を傾ける。 少しだけ睡魔が襲ってくるのを感じたが、水前寺は頭を振って意識を戻して思考の領域に再度足を踏み入れた。 いくつもの情報を統合すると、まず間違いなく町田は軍のスパイだった。 それもしっかりと教育された類ではなく、ただの民間協力者であったはずだ。 根っからのスパイにしてはその挙動、頭脳、体力に疑問点がついたし、記憶を失くした話は恐らく事実だ。即席で作った話だとしたら、会話の中で齟齬が生まれるはずだ。しかし町田の供述は一応の筋は通っていた。 そこまではよかった。 水前寺は町田を記憶の消されたただの大学生だと半ば信じていたし、幾重にも重なった障害を排除するのに必死でそこまで町田を警戒する余裕もなかった。 だが町田は3つのミスを犯した。 まず、女子トイレに先に侵入していた水前寺に電気をつけずに町田が接近してきたことだ。 あの時町田の手が届く距離に近づくまで水前寺は気づかなかった。 いや、正確に言えば『町田は電気もつけず、気づかれないように忍び寄ってきたせいで水前寺は手が届く距離に近づかれるまで気づかなかった』、だ。 そこに違和感の正体があった。 あの後、町田は不審な人影を見かけたから声を掛けたと言っていたがそれならば直のこと、トイレの電気は点けるはずなのだ。トイレの闇の中でごそごそ座り込んで何かをしている物体を見かけたら、普通は恐怖が勝って闇を照らす。持っていたキーホルダーにライト機能もついていたのだから、それを点ける方法すらあった。 恐らく、あの時町田は水前寺を襲うつもりだったのだ。背後から忍び寄り、あわよくば脅してカードを手早く手に入れる。だからライトも点けなかったし、足音も殺していた。しかし水前寺に背負い投げを見事に決められ、力では叶わないとみてああいった事情を説明したのだろう。記憶を失っていたことが事実だったから、ある意味嘘はつかなくていい。哀れな被害者であるという実体験がやつの説得力にもなっていたのだ。 2つめのミスは盗聴器の存在を知られてしまったことだ。 これは町田に落ち度はない。水前寺とて、天じいから預かった電波感知器をあのタイミングで使用しなければ気づかなかった。 町田は携帯の類を持っていなかった。にも関わらず、電波感知器は反応した。 感知器の感知範囲は設定することができた。円状に半径5mの距離にある電波を感知する無指向モード。単一方向に感知範囲を20mの距離まで伸ばす指向モード。あの時水前寺は10m以上離れた位置にあるカブに、発信機がついている可能性を考えて指向モードに切り替えて使用した。町田の不運はその感知範囲にしゃがみこんでいたことだ。 液晶画面には遠くにあるカブから電波が出ていることの他に、町田からも電波が出ていることを示していた。 ここで1つめの町田のミスがなければ、町田も発信機を取り付けられている哀れな被害者であるという可能性が水前寺を過ちに導いていたはずだ。 『町田、お前は軍の人間に記憶を消された際に発信機も取り付けられて行動を監視されている。このままでは自分の位置も捕捉されてしまう。町田、発信機を取り除こう』 そして敵にその会話を盗聴されてしまう結果となったはずだ。 だがこの時点で町田に対して違和感を抱いていた水前寺は町田が敵のスパイであることに気づいた。ならば、町田に取り付けるべきは発信機ではなく、盗聴器であるという結論に到るのだ。 盗聴器ならば町田がカードを入手したとしたら即迎えに出向くこともできる。 証拠として、町田と別れてからバンの追跡がぱったりと止んだ。町田が目的のカードの入手に成功したと盗聴器を使って報告したのだろう。 そして3つめのミスは町田の目的がカードだと奴自身の行動が認めてしまったこと。 水前寺が町田と別れる際、別行動を取ることに町田は難色を示した。あの時確かに奴は演技をする必要はなかった。1人になるのが嫌だというのも本心だろう。しかし奴が本当に別行動を取りたくなかった理由は明白で、目的を達成していなかったからだ。 水前寺が持つグレーのカードの回収である。 町田の目的が何か、可能性はいくつかあった。自分を捕まえようとしたとか、古地図だとか、目の情報だとか、グレーのカードだとか。 最後の可能性がもっとも高かったから、水前寺は町田に預けることを提案してカマをかけたのだ。 提案すれば答えは明白だった。それまで難癖をつけてでも水前寺と別れようとしなかった町田がカードが手元に残るとわかった途端あっさりと手の平を返した。 今思えば、あの瞬間町田は不安だったのだろう。目的であるグレーのカードを入手できておらず、味方であるはずの軍の人間と警察に追われる状況にあった。恐らく軍の人間が町田をどうサポートするのか知らされていなかったのだろう。だから水前寺の作戦にほいほいと乗っかってきた。なにか綿密な計画があるのなら、こちらの提案を蹴るか、思案する時間が必要だったはずだ。 今頃、町田は軍の人間にカードを渡しているだろう。 口元に笑みを浮かべながら、水前寺は背中のバッグを下ろした。 バッグの底に敷いてあった底面カバーをめくり、1つの小さなケースを取り出す。 ケースを開けると、そこにはグレーのカードがあった。 正確には、数時間前まではホワイトだったグレーのカード、ということになる。 つまり、今水前寺の手元にあるのはマスターカードからコピーをとった方のカードである。 あの時、町田に渡したカードは紛れもなく夕子から預かったマスターカードだ。 町田にカードを渡すその瞬間まで、水前寺はグレーにカラーリングしたコピーカードの方を渡そうと思っていた。そうすればマスターカードは手元に残り、哀れな町田はダミーカードに踊らされて失態を招く。 しかし水前寺の脳裏である可能性が一瞬で駆け抜けた。 奴らに対して、一矢報いる方法が浮かんだのだ。 町田にコピーカードを渡せばどうなるか。 恐らく、町田は使えないと評価を受け、記憶を消されて排除される。 だがそれでおしまいだ。奴らは町田を作戦から除外した後、マスターカードを処分するまで再度水前寺を追うだろう。 それではあまりに得るものが少ない。 ではマスターカードを渡せば奴らはどうするか。 悪魔のような笑みが水前寺の口元に広がる。 この作戦を指揮している人間が1人なのか複数なのかはわからない。だが、今までの軍の人間の行動とは少しばかり違っているのは確かだ。それに、指揮している人間は頭がいい。だがその中に傲慢さが見え隠れしている。頭がよく、傲慢な人間であればあるほど、この策に見事にはまってくれるはずだ。 明日の10時に指定した場所に町田が来れば答えがわかる。もしかしたら来られない事態に陥るかもしれないが、そのときはそのときだ。 顔を上げると、パトカーの赤い光が遠くに見えた。 「おっと……来たか」 水前寺は堤防の上でカブのエンジンに火を入れた。 「まだ寝るなよ。天じい」 水前寺が走り去ったのを見計らったようなタイミングで海に瞬く円光を上げる海上自衛軍基地で一際高いサイレンが鳴る。南の島の入港である。 南の島は名を「タイコンデロガ」といった。
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