カウンター



予想はしていたが、ミステリーサークルの作成は思った以上に困難だった。

図面は紆余曲折はありながらも何とか完成したが、やはり労働面が問題だ。
完成した設計図を元に、ススキの中に単独先行し、突貫作業を続けてはいたものの、計画通りには中々進まない。試行錯誤を繰り返しながらも何とかコツをつかんできた頃には、日が沈み始めていて、次第に夜の闇が山の稜線ににじり寄ってきていた。
夜中でも作業はできるような方法は聞いてはいるのだが、やはりどちらにしろ作業効率は落ちてしまうだろう。
それまでに何としても円の一角だけは作成したかった。
ライト付きヘルメットを頭に被り、作業を再開したのだが、どうにも光がススキの奥まで届かない。足元まで届かなければ地面のマーキングが見えないため一歩も二歩も遅れてしまう。

ヘルメットに内蔵されていた無線が突然回線を開いた。
「流石に暗くなってくると個人労働の限界だろ。おれを手伝わせろよ」
まただ。
榎本は先程から何かあるごとに浅羽に手伝わせろといってくる。
のど乾いたろ。お茶だ。ジュースだ。ヤニだ。泡麦茶だ。おつまみだ。アイスだ。バニラとチョコレートとイチゴとオレンジどれがいい。その代わり――。
二の句は必ず手伝わせろ、だった。
テロリストに対しては、いかなる要求も呑んではならず、譲歩してはならず、決して屈服してはならない。
浅羽の覚悟を慮ってか、榎本の言葉を遮るようなノイズが走り、今度は聞いたことのない男の声がした。
「サイリュームライトを根元に置いていきなさい」
黒服の誰かだった。顔を上げても付近には誰もいなかったが、彼らは先程から浅羽に補給やアドバイスをくれる。
言われた通りにしてみるとかなり見やすくなった。
「蛍光スプレーも合わせて使えばいい」
なんとも不思議なものだった。
去年の夏休み最後の日からずっと恐怖の象徴であった黒服の連中がサポートしてくれるというのはどこか現実離れしているように思う。 国を守るためであろうがなんだろうが記憶を消すような連中に身近にいてほしいなどと思ったことはなかったが、いざ味方になればこれほど頼もしいものはない。
ただ、先程から何度も黒服のアドバイスを受けたのだがその数秒後には悲鳴が無線から聞こえてくる。
「今の暗さならサイ――あああぁああぁあ!」
また一人戦場に散っていった。
こんな理不尽というか、わけのわからないことをする人は榎本しか想像できないというのが悲しいところである。
ミステリーサークルの協力要請を断った手前、少し心苦しくは感じているのだが、気に食わない上司や理不尽な上司というのは世の常らしい。放っておくしかないだろう。

線香代わりにサイリュームライトをちょっと多めに投げてやる。

作業を始めて何時間が経っただろうか。
いったん作業現場を離れ、少し開けた斜面に腰を下ろして休憩していると腹が鳴った。
月の位置からして既に日付は変わっているかもしれない。浅羽は昼に餃子を食べてから何も食べていなかった。
鳴り止まない腹の虫に、スズムシが反応して静かに音を奏で始める。
スズムシの奏でる音色は、数え切れないほど単一な作業を繰り返したせいで火傷した手のひらを慰めてくれる。
一匹のスズムシ以外、虫の声は聞こえない。
静かな夜だった。
星空は見えない。なぜなら浅羽のすぐ傍で地上3mの高さから目も眩むようなライトが4台地表を照らしつけているからだ。
これも黒服の連中が設置してくれたものだ。
あまりにも目立つ作業現場だが、周囲の人払いは完璧で、昨日の夜からここには誰一人近寄れないことになっているらしい。
公然と封鎖して作成するミステリーサークルとはなんとも贅沢な話である。 不意に静寂を断ち切る音がバンの方から聞こえた。
スズムシが驚いて飛び立っていく。
再び辺りに無音の世界が広がった。
無音の世界に、榎本がススキを書き分ける音をたずさえて踏み込んでくる。
榎本の手にはいつも通りのカップ麺が二つ。その口には割り箸を咥えている。既にお湯が入っているらしく、湯気を立ち昇らせて近づいてくるカップ麺は見るからに美味そうだ。
これから来る誘惑に乗ってはならない。
それは榎本の罠である可能性が余りにも高すぎる。
――その空きっ腹を満たしたければおれ様に協力を仰ぎやがれがははは、とかなんとか。そんなことを言うに決まっているのだ。
しかし榎本は表情を一変することなく片方のカップ麺を突き出して来た。
ポケットの中からもう一対の割り箸が顔を出している。
榎本が何の条件も提示しないことに疑問を抱きながらも、浅羽はカップ麺を受け取りポケットから箸を引き抜いた。両手に残る痛みに、カップ麺の暖かさが染みた。受け取ったカップ麺を隣に置き、割り箸を重石にして熱が逃げるのを防ぐ。
榎本は口から微かに唾液の付着した割り箸を取ると、ふたを一気に剥がし、食らいつくように食べ出した。
無言のまま時が過ぎる。浅羽がそろそろできたはずのカップ麺に手を伸ばし、一口目を口に入れた瞬間に言葉が飛んできた。

「間抜けで臆病な奴の昔話をしてやるよ」
すごく間抜けな顔をしていたと思う。口からラーメンを垂らし、榎本に奇異の目を向けられる。
「お前、椎名からの手紙は読んだよな」
麺をすすりながら頷く。
「じゃあ『子犬作戦』のことはあらかた知ってるな」
麺を咀嚼しながら頷く。
「でも『ロズウェル計画』についてはほとんど知らないと」
麺をお嚥下しながら頷く。
「一つ。質問はなし。すまんがそれだけ守ってくれるか」
いつものことだった。力強く頷いた。
浅羽の返答を見て、その目に覚悟の色を確認して、無線で黒服の一人を呼び出した後、
榎本は突然ナイフを出して自分の首を切りつけた。

浅羽の口から大声が出た。
榎本はそれを無視して首筋から血を流しながら刃を進めた。
何をしているかはわかる。
自分もやった。
首筋に埋め込まれた虫を取り出しているのだ。
痛かった。
それ以上に怖かった。
榎本はそれを苦痛の表情こそしていたが泣き言は一言も言わなかった。
作業を終え、腰のポーチからタオルと水、消毒液、ガーゼ、テープを取り出してあっという間に応急措置をすました。
取り出した虫は、血をふき取ったタオルで包んで呼ばれた黒服に渡す。
榎本は一言だけ地中海、と告げた。
黒服は無言で頷き、恐らくその虫を地中海行きの便に乗せて飛ぶのだろう。
榎本は今、解放された。
そして何事もなかったかのような声で話し出した。
「虫無しでも盗聴する手段がないわけじゃないか――名前はまずいな、仮に『木村」としよう」

木村という人物の昔話が始まった。



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