カウンター

暗号


ぼへぼへぼへぼへ。

間抜けな音だと乗り手の水前寺自身もそう思っている。
だが周囲からいくら買い換えを勧められても、気が抜けるからある種の騒音罪だ、などと苦情の声を聞いても当の水前寺は一切これに聞く耳を持たない。この脱力系スーパーカブを手放す気は水前寺にはないし、その権利もない。
今もテクノロジーの海の只中に身を置く母方の祖父――村上天兵の名義から一度も変更されずに今を走るこのカブは水前寺が生まれるよりも前から天じいに乗り回され続け、回りまわって今は水前寺のけつの下にある。
愛着があるというのも言われてみればそうなのかもしれないが、このカブ自体天じいの手によって色々な改造が施されている分利用価値が高いというのもその理由の一つである。
防水仕様であるとか追跡者用の妨害装置であるとかリアクターを搭載してのリミッター解除であるとか有効活用できるものが満載なのである。新しいバイクを買ったとして、同様の仕様にチューンするには恐らく短くない期間が必要になってしまうだろう。それは支払う代価に見合っていないと思うのだ。
結果として、水前寺は今も帰宅する道中を周囲に気の抜ける騒音を撒き散らしながら進んでいる。

――浅羽くんは既に事を成し遂げただろうか。
この答えのない疑問が脳内を占領するのはもう何度目だろう。
彼女にすべてを託した今となっては信じるしかその方法がないとはいえ、やはり自分では何もできない事柄である分なおさら考えてしまうのだと思う。
彼女に浅羽が持っていたグレーのカードを盗んでくれと頼んでからまだ20分と過ぎていない。
流石にまだ実行には及んでいないだろう。
盗めても、盗めなくとも21時30分に再度公園に集合する手はずになっているが、彼女が目標を奪取できるかどうかの確率は五分五分といったところのはずだ。
あの浅羽の様子を知っている分、強攻策には出ないだろうし、トイレとか風呂とか、隙を見て侵入するしか恐らく手はない。水前寺も強攻策に出ることを望んでいないからこそ、家族である彼女を巻き込んでまでグレーのカードの入手にふんぎったのだ。今後の作戦にはなんとしてもあのグレーのカードが必要だったが、それでも彼女の手を煩わせてまで手に入れないといけないのか。これもまた水前寺の頭にしこりとなって残る問題であった。
現に彼女は盗むことに難色を示していた。
それお兄ちゃんにとって大切なものなんでしょ? どうしてそれを盗まないといけないの?
当然の疑問である。
要は水前寺は目下浅羽にとって特別な意味を持つ1つの品を私利私欲のために盗んでくれと妹に頼み込んでいるのだから、無下に断られても仕方ない。そう思って今後の計画は伏せた上で今の状況を説明した。結局伏せた作戦の内容までは察せられずとも、危険な行為であるということには気づかれたが。
いくつかの疑問が飛んできて、それを水前寺は心のままに答えた。
驚いたことに、彼女は水前寺を否定することはなかった。
なぜそれが必要なのか。なぜそれが兄のためになるのか。その点でしか質問をしてこなかった。
ただ1つ。答えられなかった質問があった。
じゃあ、それを手に入れてしようとしてることは危険なんでしょ? それがわかってるのにアンタはなんでお兄ちゃんのためにそこまでするのよ。
言葉に詰まった。
聞かれて初めて抱いた疑問だった。
水前寺は今もって出ない答えを求めて再度自問自答する。
敵は軍だ。簡単に記憶を消すような連中だ。恐らく軍事機密に関わるグレーのカードを入手したとあればまた奴らは動き出すだろうし、払う代償は計り知れない。今度こそ消されてしまうかもしれない。対して、グレーのカードを入手できたとしてもそれに見合う代価が必ず支払われる保証はどこにもない。むしろ出口のない迷宮に自ら足を踏み入れるだけという可能性のほうがまだ高いだろう。
ではなぜ。
思考の回転にまたもや霧がかかり、答えを出すことはできなかった。
ただ思うのは、自分は償いがしたいのだろうということと、あのただ話しているだけの生産性のない部活の時間を取り戻したい。そう思っているということだ。
ため息が出る。
結局は私利私欲を満たすため……か。
いつか遠くに置き忘れてきた感情の一部が、水前寺の心の底からあと一歩で顔を出す寸前で沈殿していった。

考え事をしているうちに、村上の実家が見えてきた。 門の前にカブを止め、門柱から少し外れた所にある鍵穴に尻から出した鍵を差し込む。
カブを押し入れて門をくぐり、広大な敷地の中を進み車庫にまでカブを押して片付ける。
巨大な母屋に目を向け、今日はまだ拝んでいなかったことを思い出す。
門の鍵を再度閉めなおし、玄関に向かう。
「水前寺」と書かれた表札は見知った人間でなければ読むことができないほどにかすれている。古めかしさで言えば教科書に載っていてもおかしくない程の風体である母屋に対して、玄関の真新しさだけが異様に際立つ玄関の重い引き戸を開ける。
靴を脱ぎ、廊下を踏み進む。
真っ暗な廊下には明かりなど微塵も灯っていないが、それでも水前寺はなんの障害も感じずずしずしと廊下を進み続ける。
奥から2番目の部屋の前を通るとき、部屋の明かりが漏れていることに一抹の不快感を覚えたが、無理やりその感情を押し込めて一番奥の部屋のふすまを開く。
周囲の部屋とは違って小さな部屋だった。
それでも8畳ある部屋を水前寺は迷うことなく進み、唯一明かりの灯っている南側の仏壇の前に正座をする。
淡いオレンジのライトが灯る仏壇の前には位牌がぽつんと置かれ、燃え尽きなかった線香がその姿を香炉の灰の中から曝け出していた。
仏壇の引き出しを開け、ライターを取り出して燃え残った線香に火を点けた。
薄闇の中で少しだけ光と、線香の匂いが広がった。
リンを鳴らすこともせず、水前寺は両手を合わせてしばし祈りを捧げる。
一度。二度。三度。
三度目の祈りの途中で背後に人の気配がするが、水前寺は動かなかった。
「こんな時間までどこに行っていた」
背後に立った人物は厳粛且つ重低な声音でそう尋ねてきた。
「おれの勝手だ。詮索はやめてほしい」
水前寺は祈りを中断することなく、そのままの姿勢で言葉を返す。
背後の人物は深くため息をついた。その息は水前寺の前で揺れる線香の煙を揺らがせる。
「いい加減無駄なことに時間を費やすのは辞めたらどうだ。そんなことをしていてもお前の将来には何の利益もない」
腹の奥に熱が灯るのを水前寺は感じていた。しかしそれを表に出すことはしない。この男には何を言っても無駄なのだ。今まで散々忠告を受け、その全てを無視してきた。対話をしようと努力した時期もあったが、この男は結局は聞く耳を持たない。会話するだけ無駄なのだ。
水前寺は腰を上げ、振り返る。
男は身の丈豊かな水前寺よりもさらに頭一つ分飛び出した大男だった。
作務衣から出た太い腕を胸の前で組んだ男は白髪の混じった髪を短く刈り込んだ容貌だけを見れば古来から続く大工の棟梁のような外見だ。しかしその太い腕は広大な畑を耕して培ったものであり、子供の顔ぐらいある拳は縄細工や木工を繰り返して鍛え上げられたものだった。
男の横を通り、部屋を出ようとした水前寺の背に男が声をかける。
「もっと周りを見ろ。お前に求められているものを見据えなおせ」
熱が少しだけ顔を出すのを水前寺は押さえることができない。
「同じ言葉を10年前の自分に言えよ……親父」
ふすまを力強く閉め、10年前までは母の部屋だった一室を出て、水前寺は廊下を突き進んだ。
玄関で靴を履きなおす途中、雨の匂いがすることに気づいた。
玄関を出て空を見上げると、先ほどの曇天は雨雲となって園原市を包み込んでいた。
顔に滴る雫はどんどん増えて、水前寺の頭を冷やす。
「10年前に言わないといけないのはおれも同じ……か」
頭をごつんと拳で殴りつける。
今はこんなことで気持ちを荒げている場合ではなかった。
カブの座席下の荷物を持ってくるのを忘れていたことを思い出して水前寺はカブの元へ舞い戻り、荷物を持って庭を駆け抜けて自身の住処である蔵の中に足を踏み入れる。
扉の鍵が開いていた。
中を覗き込むと、雨のことを予見していたのかゴム長が転がっており、部屋に闖入者がいることに脱力する。
必要な荷物を抱えたまま急な階段を上りきると、予想通りそこには見慣れた部屋でブランケットを丸めて抱きかかえる姉の姿があった。
「あ、おかえりー邦ちゃん」
「不法侵入で訴えていいか?」
「いいよー、ただし蔵の不法占拠で邦ちゃんが裁かれた後ならね」
「……もういい」
姉はいつもこうだった。
水前寺が油断したときに限って必ず現れ、なにか事を成そうとするときにはその直前に必ず現れる。まるで自分の行動の全てを読まれているような気がして面白くない。まったくもって面白くない。
「そんな顔しないの。天兵じいちゃんから荷物預かったの運んであげたんだからさ。もー、重かったのにお父さんに手伝わせるのが嫌だろーと思って1人で運んであげたんだからね」
姉はそういって肩をぐるぐると回し、長い髪をぐりんぐりん振り回す。全身からぽきぽきと音が鳴り、ようやく部屋の隅を指差した。
そこにはダンボールの箱が2箱積み重なっていて、一周するようにガムテープが巻かれている。つまり2つのダンボールをは別々にすることができず、運ぶ際には2箱分を一緒に運ばないといけないのだ。
「中は確認したのか、姉貴」
「できるわけないでしょ? 暗号なんて忘れちゃったし」
姉はブランケットに顔を埋めてむーむーとうなりだす。どんな遊びなのか、はたまた遊びなのか水前寺にはまったく理解できない。
それにしても、と水前寺は1人心の中で思う。
さすが天じいだ。中身のことを考えるとその封の仕方で送ってくれた方がいい。
水前寺は2段重なったダンボールの中間部分に手を添える。感覚だけでダンボールの表面をなで続けると、指先に微かに痛みが走る。超微電流の5mmサイズのスタンガンが仕込まれているのを感じ取る。
水前寺は汚い自室を大またで闊歩し、隅に転がっていた電卓と、ドライバーとを拾ってくる。
どっかとダンボールの横に座りなおし、ドライバーを使って電卓のカバーを開いて内部の端子を引っ張り出す。傍目には普通の電卓だがその中身は別物だ。電流が流れる部分に端子を宛がうと電卓に反応があり、『101'045'127』の数字が表示される。
「暗号って程のことじゃないだろ、こんなの」
「この部屋からものさし探すほうがしんどいの」
水前寺は姉の発言を一笑に伏したが、得てして姉の言うことは正しかったことを知る。水前寺がものさしを探し出すまで部屋の中を3往復はした。
「ま、中身がなんであれ後はご自由にどうぞ。あ、悪いことだけはしないようにね」
そういって姉はブランケットを放り投げて部屋を出て行った。最後の一言が余計だといつも言っているのに一向に直す気配がないのはもう癖となってしまっているからだろうか。
どちらにせよ邪魔者が消えたのは水前寺にとって好都合だった。
電卓から伸びた端子を離し、先ほど電流の走った箇所を指で触れてみるともう電流は流れていなかった。変わりにダンボールの表面に焼けたような点が出来上がっていて、水前寺はそこにものさしを当てる。
姉に言ったように、暗号というほどのことではない。
ただ単に出来上がった点の位置からX軸方向に101mm、Y軸方向に45mm、Z軸方向に127mm進めばいいだけなのだから子供でも計測できる。 天じいからの指示通り進んだ位置に改めて指を置き、力を込めた。ダンボールが変形し、奥でかちっという音が響く。2箱上下に重ねられたダンボールの境目から空気が抜けるような音が漏れ、自動的に2段目の箱が2mm程浮き、隙間を開ける。指を間にすべりこませ、上に押し上げるとダンボールの中身が姿を見せた。
「さすがだ、天じい」

自然と口から出る言葉と共に、水前寺の頬に笑みが浮かんだ。



  • TOPへ
  • 水前寺の追憶11へ


  • 作品を面白いと感じられたら感想お待ちしております。拍手だけでも頂けたらとても励みになります。