質問
「なんとも……盲点だったな」 水前寺邦博は町田一輝と共に町田の住まいだと自称するぼろアパートにたどり着いた。 「じゃ、ま、お上がりくださいな。きったねぇけど」 町田の薦めるままに梯子と呼ぶのがふさわしいと思えるほど急な階段を乗り越えて、きしむ廊下を通りすぎる。2階の中央の部屋、203号室が町田の部屋だ。 扉を開けて、即座にある台所兼用の4畳間は1人暮らしの大学生を嫌というほど連想させる程度に汚れている。しかし新聞部の部室といい、自室といい、人のことをとやかく言える立場にはない水前寺は無言で4畳間を通り過ぎ、六畳間の居間に足を踏み入れる。 ズカズカと本人の許可を得ないまま窓に近づき、締め切っていた窓を開け放つ。 階下には先ほどまで水前寺が居た道路があり、目線を上げるとつい昨夜自分が登った浅羽家の屋根があり、同時に夕子の部屋の締め切った窓が見える。 「監視にはもってこいだな」 水前寺は1人呟き、しばし黙考にふける。 一応の来客対応として、町田は部屋に散らばったエロ雑誌やエロビデオを隅に寄せる。涙ぐましい努力であった。余りにも暇で暇で仕方ない大学生にとって見れば唯一の娯楽はそういった方向に向かうしかなく、煙草もパチンコもしない町田の部屋には寄せるだけではどうしようもない程の「Adult Only」が溢れており、棚に隠そうにもはみ出てしまうほどである。 「町田」 「へいっ!」 趣味が画一されすぎてコレクターの域に到達しつつあるお気に入りの団地妻シリーズを、奇妙な笑顔を浮かべたままの町田は申し訳程度にカーテンの裾に隠そうとしていた。突然の水前寺の呼びかけに思わず声が裏返る。 「何を三下みたいな声を上げとるんだ。そのいかがわしい本をちょっとのけてくれ」 水前寺は冷静な表情で町田が今まさに隠そうとしていた団地妻シリーズを指差す。町田の脳は焦りと羞恥心で変な方向にヒートしてしまい、 「まぁ、待ってくれ水前寺さんよ。あんたも男だ。こういうもんが世界中の男の自室にあることぐらい知ってるだろ? その一端が目に付いたぐらいでいかがわしいとかそんな一言で表すようなことはしないでくれ。俺は何も悪事を働いてるわけじゃない、むしろ日本の出版業界やビデオ業界に貢献してると言ってもいい。俺がもしこういったものの収集を今後一切やめてみろ? 今後の一生で一体どれだけの金が滞ると思う? そんなことになったら自分の体を提供してまで男の欲望に応えてくれているそこの女性陣に対して失礼だとは思わないか? あんたにそんなことできるか? 俺ならできない。できないことを棚に上げて蔑むなんて最低の人間がすることだ。だが大丈夫。そんなあんたの行動も今ならまだ間に合う。謝罪の言葉を一言、たった一言心の中で呟けばいいんだ。それで許される。許してくれるさ。だから、」 「ちょっと黙ってくれ団地妻好き」 「ぬのあああああああ!」 町田は自分の性癖がバレバレな事実と、自分の言い訳の荒唐無稽さにこらえ切れず六畳間を頭を抱えて転げまわる。 町田が転がったおかげで水前寺が見たかった窓際の畳が姿を現す。水前寺は転げまわる町田を隅のほうに蹴飛ばすと、しゃがみこんで畳に触れる。手触りだけでもわかるほど、窓際の畳みには4つのへこみが刻み込まれている。 水前寺はそれらが何か即座に理解する。 この跡は大型の机が置かれていた跡だ。他にも蛇腹状に広がっている跡がうっすらとだがあり、これはケーブルや延長コードの類が長時間固定された状態になっていたことを示す。単なるケーブルが置かれたぐらいで畳に僅かとはいえへこみなどできるはずがない。つまりそれは畳に跡を残すほどの大量のケーブルが纏められて鎮座していたことを示す。周囲を見回してみてもそんなに大量のケーブルの用途がこの部屋にはない。つまりそれは軍が持ち込んだ監視装置の類がこの部屋にあったことを証明していた。対して、台所がある4畳間には特に何も跡になっているへこみもなく、家の東側にも窓はあったがそちらには何かが取り付けられていたような跡もない。 「この部屋で浅羽特派員を――いや、浅羽家全員が監視されていたようだな」 窓枠に取り付けられていたカメラは3台。窓枠の微かな窪みを辿れば、浅羽の部屋が微かに見える廊下の窓、夕子の部屋、そして浅羽理容店の客用入り口に向けられていたことがわかる。 浅羽だけを監視していたのなら夕子の部屋にまでカメラを向ける必要はない。2台もあればその機能たるや充分で、それが3台あるということが一家全員が監視状態にあったということを証明している。水前寺は立ち上がり、玄関に足を運ぶ。目的のものは扉に大量にあったが、掻き分けて探すうちにそれを見つけた。 ――やはりな。 だが1つ解せないことがある。 浅羽家の監視は今も続いている。 夕子を監視していた連中が軍の人間であることは明白だ。それなのに格好の監視場所であった町田の部屋を引き払った理由はなんなのか。手掛かりがまだ足りない。 「町田、どうやら……なにをしている?」 「贖罪を……団地妻の神に贖罪の祈りをささげ、」 水前寺は目を覆いたくなりながら町田に近寄り、町田の後頭部に手刀を落とす。 「はっ!? 俺は何を……」 「思い出さんでいいからおれを見ろ。町田、お前が連中に目をつけられた理由がわかった。記憶を消された可能性があるのは9月に入ってから、間違いないな?」 「あ、ああ」 「よく聞いてくれ。この部屋は9月からずっと浅羽家を監視するために乗っ取られていたんだ」 「監視?」 「ああ。さっき伊里野加奈と浅羽直之が軍に関係していたことは話したな。その前後で浅羽を監視する必要があった軍の連中はこの部屋を監視場所として選んだ。そして監視を行っていたということは連中が残した足跡が到るところにあるということだ」 「じゃなんか連中に繋がる手掛かりがあったのか?」 「とりあえずは。だがまだ足りない。それで確認なんだが、9月から最近までの記憶は一切残っていないという言葉に間違いはないか?」 しばし町田はあごに手を当てて考えるが、すぐに肯定の色を示す。 「ああ、昨日の場合と違って変に残ってる記憶はない。私生活含めて全部消えてるよ」 間違いないといわんばかりに強く頷きながら町田は答えた。 「ということはやはりお前はここにずっと滞在していたことになる。一切の記憶を消したということはこの部屋に1人か2人、軍の人間がお前も含めて浅羽家の監視を行っていたということになる」 まっすぐに指を天井に向けて立てて水前寺が断定する。 「そうとは限らないんじゃないか? 俺がいたって邪魔なだけだろ? わざわざこんなトコじゃなくても連中にとって都合のいい軍の地下とかに幽閉された可能性だってある」 だが水前寺は町田の仮説を一蹴した。 「恐らく違う。こういう古いアパートにはよくある話だが、家賃はどうやって納めてる?」 「あ、そうか。このアパートの管理人って藤吉ってじいさんなんだけど銀行振り込みとか嫌うから毎月封筒に入れて渡してた。しかもじいさん適当だから集金日が前後することはザラだったな」 「ということはお前以外の人間が現金を払うのは無理がある。後でその藤吉老人のところへ行くとしよう。恐らくそれでお前がこの部屋にいたことは証明される。さらにこの部屋が監視に使われていた証拠がある。これだ」 水前寺はピラピラと薄い長方形の紙を揺らす。町田が紙を受け取って見てみると、それは電気料金の支払い明細書だった。 「右手にあるのが8月。左手にあるのが9月のものだ。ポスト代わりに直接アパートの部屋にこういうのを入れていく電気会社も多いからな。料金を見れば明白だろう?」 「ほんとだ……」 8月の気温は尋常じゃなかったが、前年度比を見ても電気料金は1000円上がっているだけである。しかし9月になるとその電気料金は3万円も上がっていた。単純に電気の使用量が圧倒的に増えた結果だった。 「監視するのにモニターを使わないことは稀だ。人数がいれば双眼鏡だけで事足りるが、それは電気がない場所からの監視に限られるといってもいい。だがこの部屋には電気も、モニターを設置するスペースもある。となれば必然的に監視カメラとモニターは24時間営業だ。電気代は確実に増える。それに電話も盗聴もされていたとあってはその料金も加算されていただろうしな」 「盗聴? こんなとこで人んちの電話とか盗聴できんの?」 「家に直接盗聴器を取り付けなくても盗聴ぐらいできる。専用の設備がいるがそう大掛かりなものは必要ない。こういう部屋みたいな監視対象に近いうってつけの場所があれば尚更だ。といっても連中がその気になればエシュロンぐらい使うだろうがな。で……、わかっただろう。その電気代が示してることがなにか」 「まあ、これだけあればな」 「となれば、だ。あと手がかりになるとすればその失われた2ヶ月の間にお前に自由があったかどうかが重要になってくる。自由じゃなかったとすればそこの襖の中に叩き込まれていたか、どこかにくくり付けられるのが定番だが、どちらもそういった跡がない。もしお前が自由に行動する権利が与えられていたとしたら、日中お前は何をして過ごしていたのか」 「浅羽の家の監視を手伝ってたとか?」 「ま、否定はできん。そういう監視情報を知ったから記憶を消されてるというのも頷ける。だが、それはあまり可能性は高くない。もしお前が監視してたとして、なにか報告する異変が生じたとして、即座に対応できると思うか?」 「奥さんの異変にだったら気づく自信があるぞ。あの奥さん美人だし――。なんだよ、そんな目で見るなよ。冗談だよ」 「そこらへんにあるアダルトビデオのタイトル見たらそうと信じるのは難しいんだが」 「いやいやいや……。でも言いたいことはわかった。確かに俺がその『報告しなきゃいけない事態』を目撃しても即座に協力できるとは思えない。というか、そんな不法占拠みたいなことする奴らに協力なんてしないだろうしな」 首を皮肉めいたそぶりで横に振ると、町田は窓枠に座り、向かいの浅羽理容店を見つめる。水前寺は町田の言葉に一瞬の疑問を感じた。この男はなぜか憎めない部分がある。それは本人が気づいていないスキルなのだろうが、人との壁を取り払う力といってもいい。仮に自分が自室を不法占拠などされようものなら刺し違えてでも反抗するだろう。しかしこの目の前でボケた瞳で外界を見つめる男に限ってはそんな抵抗はしないのではないだろうか。相手次第ではあるが、確執が発生するのは最初だけで何かきっかけがあれば軍の人間とも仲良くなって一緒に監視してたり世間話に講じたりしそうな気がする。本人に伝えてもそんなことはないと否定するだろうが、なんとなく水前寺には町田という男の妙な気安さをそう評価していた。 水前寺の評価に気づいたわけではないだろうが、ああと呟いた町田は何かを思い出したような素振りを見せて、 「そういえば、アダルトビデオで思い出したんだけどさ。借りた記憶のないビデオが部屋に転がってたのをおととい返したんだ」 窓枠から立ち上がりながら水前寺を押しのけて部屋の隅のゴミだめに町田は頭から突っ込む。 「借りた記憶のないビデオ? それはもしかして」 「えーと、確かここら辺に……――あっ。あったあった。ほらコレ」 ゴミだめから出てきた町田は右手に握っていたレシートのような紙を水前寺に手渡そうと差し出してきた。ゴミだめから出てきたそれを少しだけ受け取るのをためらいながら水前寺は受け取った。紙は本当にレシートで、『光道レンタル』と太字で書かれたタイトルに続き、借りたビデオのタイトルが列挙してあった。曰く、 『人妻監視日記~夫から奪い取るまでの8日間~』 一瞬の間隙が水前寺の脳裏を襲う。ああ、と嘆きたくなるようなタイトルだ。 「…………通報していいか?」 「やめてくれ。俺にはまだ見ぬ人妻が何万人もいるんだ」 「新聞の見出しはそれで決まりだな。さらば町田。今度はお前が囚人仲間とよろしくやってくれ」 「嫌だっての!」 「他の作品は、『揉んで悶えて・爆乳アルマゲドン1999』……ああ」 「哀れむような嘆きの声を上げるのやめてくれ! 俺だって借りた記憶ないんだからしょうがないだろ!?」 町田の弁明が響いたのだろう。階下に住む藤吉老人はアダルトビデオのタイトルについて論争を繰り広げる部屋に、注意勧告のために2分後に現れ、聞き込みに行く手間は省けた。水前寺はなおも憤慨する町田を他所に、藤吉老人に9月と10月の家賃を町田はちゃんと納めているか確認をとった。結論としては9月分と10月分の家賃をきっちりと納めており、渡したのも町田本人だという情報が得られた。 「じゃあ、確かにそのビデオはお前が借りた記憶がないビデオだと言うんだな?」 「ああ」 「………………」 水前寺は一心に考え込む。いくつか可能性が脳内をめぐる。 結論としては、町田の言動の裏づけをとる必要がある。事実として町田は光道レンタルなるビデオ屋でいくつものビデオをレンタルしている。しかし、それらのビデオを町田は見たことがないという。町田がビデオの存在に気づいたときには既にレンタル期限を何日も過ぎており、さらには閉店時間まであと30分もなかった。中身を確認する余裕もなかったのだそうだ。 町田の話が事実だというのなら、そのアダルトビデオは町田が記憶を消される前に借りたものだということになる。これは大きなヒントになるかもしれない。レシートには顧客番号がしっかりと印字されており、他の人間が借りたわけではなく、光道レンタルのNo0708である町田一輝が確かに借りたものだ。ならばそのレンタルビデオ屋に行けばなにかわかるかもしれない。 次の目的は決まった。 しかし、そこへ向かう前に確認したいことがもう1つだけある。 水前寺は突然窓枠に寄り、窓を締め切り、カーテンも閉めた。 「え、なんでカーテン閉めんの?」 驚く町田と水前寺を、遮光性の低いカーテンからうっすらと差し込む陽光が包み込む。畳に座り込んだ町田の正面に立ち、見上げる町田に向けて水前寺は尋ねた。 「町田――お前はエイリアンを見たことがあるか?」 「は? いきなり何言って、」 水前寺は町田の返答を待ったりはしなかった。 「そこら中にそんなエイリアンがうろうろしてるって聞いたことないか? 消された記憶と忘れた記憶の境界ってなんだと思う? コンピュータの中から核分裂に使われるエネルギーが微弱に発せられてるって知ってたか? 人間が被爆すると化け物になるって噂は? さっきからそこの窓から覗いてる女は誰だ? 自分にナイフが突き立つ感触ってプリンにスプーンを刺す瞬間と似てるって知ってたか? 電話してると脳に誰かの思考が混ざりこむって実証されたって情報は?」 矢継ぎ早に質問を浴びせかける。その1つ1つに町田は「へ?」とか「は?」とか「美人か!?」とか大よそ答えにならない反応を示したが、次第に町田からの反応が薄くなり、 ガクッ。 町田の首から力が抜け、目も口も開けたまま瞬きもしない。呼吸が止まってしまったかのように動かない。水前寺は町田の正面に膝をつけて町田の肩をゆすってみたが反応はない。虚ろな色をした瞳の前で手を振っても反応せず、呼びかけにも応じない。 町田は完全に意識を失っていた。 脳の混乱が一定に達したとき、異変が起こる。 噂は本当だったのだ。
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