感謝
「それで、浅羽くんにはちゃんとお礼言えた?」 鏡に向けられた「目」は、答えはわかってるけどねという顔をしている椎名を捉えた後、左右に揺れる。 椎名は苦笑する。 「まぁ、そりゃそうよね。昨日の今日だし」 そういって椎名は胸元に手をいれて、安っぽいライターと煙草を取り出し慣れた手つきで煙を吸い込んだ。 かけた椅子の肘置きに手を置き、胸いっぱいに吸い込んだ煙を夏の日差しが入り込む窓に向けて吐き出した。風が吹いているせいで煙は簡単に押し戻されて部屋に入り込む。 「なかなか面と向かってお礼なんて言いにくいわよね。しかも昨日プールで泳ぎ方教わっただけだったのに、今日は今日でVF状態から助けてもらったし、浅羽くんには更なる貸しができたわけだ」 画面が椎名の顔から離れて右手のリストバンドを見つめた。リストバンドをずらし、伊里野の手首に埋め込まれた金属球に視線が注がれる。 「そ…だけじゃ…い」 「ん?」 椎名は伊里野の言葉を聞き取れなかったらしく、怪訝な顔をして伊里野を見つめる。幾ばくかの時間を経て、 「にしても大変だったね。登校2日目にしてもう騒動が起こるなんてわたしも予想してなかったわ。第一次が突然鳴ったもんだからグロッグ装填しちゃったわよ。今回の訓練考えた奴のどたまそのままハジいてやろうかと思ったぐらい」 少しだけ笑うような声が聞こえた。 「シェルターでは浅羽くんと何か話した? 2人っきりだったんだしなんかなかったの?」 「猫の話をした」 「ねこ?」 「浅羽の下駄箱に……」 「え? 下駄箱?」 「――なんでもない」 「待った待った待った。そこまで言っといてなんでもないは通用しないわよ加奈ちゃん。あのね、まさかとは思うけどその猫浅羽くんの下駄箱に入れたりした?」 画面がとんでもない勢いで横に揺れる。 椎名はどこか嬉しそうに、でも状況を確認せずにはいられない興味心が見え見えの表情で、 「あー、それでかぁ。浅羽くんの鼻のトコにでっかい絆創膏ついてたもんね。ま、じゃあ別に認めたくないとこはノーでもいいから。質問にだけ答えて。正直に答えてくれないと分析できないから。浅羽くんとの今後のことで重要なことだから慎重に答えてね」 浅羽との今後という部分で画面がまた椎名に向く。 椎名はその反応がいちいち面白いらしく、少しだけ声を出して笑った。 「まず、浅羽くんは猫を入れたのが加奈ちゃんだって知ってる?」 ――、……コク。 「そのことを2人で話した?」 コク。 「浅羽くんは怒ってた?」 フルフル。 「男の子の下駄箱に何かを入れるってどういう意味があるかわかる?」 フルフル。 「んー。なるほどね。他には何か話しした?」 「部活のこと」 「新聞部のこと? 噂になってるぐらい有名らしいのよ、あの部活。それに水前寺って子がとんでもな……。あ!? もしかして浅羽くんに部活誘われたりした!?」 画面が右に少し傾く。画面が戻りフルフル。 「誘われたわけじゃない。新聞部のぶちょー、って人と、須藤晶穂っていう人がいるから今は3人だけだってこと言ってた」 「それだけ? 他になんか言ってなかった?」 「もしわたしが入ったら4人になるって言ってた」 椎名がとんでもなく眉を寄せた。しかめっ面もいいとこである。しばしその表情で虚空を見つめ、煙といっしょにため息を盛大に吐く。 「はー、なんなのそのとんちんかんな誘い方。加奈ちゃんに伝わってないじゃない。んー、まぁ、思春期だし、そんなもんか」 「どうかした?」 「えっとね、浅羽くんがそういったのよね」 コク。 「それね、新聞部に加奈ちゃんに入って欲しくてそういってるのよ」 画面が後方にがたっと揺れた。 「それで、加奈ちゃんなんて答えたの?」 「いそがしいからって言った」 今度は椎名ががたっと後ろに下がった。 「なんで!?」 「部活ってなんなのかよくわからなかったし、榎本にわからない質問されたらいそがしいからって言って離脱しろって言われてたから」 椎名の眉間にまた青筋が走る。 「あいつは、ほんといらないことばっかりして――。加奈ちゃん。榎本が言った忙しいって言葉と今回加奈ちゃんが浅羽君に言った忙しいって意味合いが変わってくるんだけどわかる?」 フルフル。 「榎本の方は大抵の場合今は忙しいから話しができないって意味で伝わるんだけど、浅羽くんからの誘いのほうは忙しいから新聞部には入れないって意味になっちゃうのよ」 画面の視界が少し上下に広がった。その後落胆したかのようにがくっと保健室の床に視界が移動する。 椎名の声が続く。 「まぁ、榎本が言わせたのもわかるんだけど、浅羽くんには使っちゃだめよ、それ。――、あ。いい解決策が浮かんだよ」 がばっと画面が持ち上がり、椎名の自身ありげな表情が映される。 「でも、それにはちょっとばかり難しい任務をこなさないといけないけど、それでもいい?」 画面は動かない。 「聞くまでもなかったか。じゃあ、まずは部活のことだけど……」 椎名は中学生の部活動というものを椎名の経験談も含めて恋愛やら上下関係やら立ち位置やら途中明らかな私情を絡めつつではあるが一般的な範囲での説明を始めた。伊里野はそのひとつひとつに頷き、真剣に話を聞く。 「とまぁ、こんな感じかな。だけど新聞部にさっきの話が通用するかはわからないよ。なんせいわく付きの部活だから。それでも入る?」 画面は動かない。 「わかった。じゃあ、申請の準備してくるから」 「転属願いみたいなもの?」 「あんなに堅苦しくないけどね。あとは、はい」 机の引き出しから情報端末を取り出した椎名はそれを伊里野に差し出してきた。 「さっき加奈ちゃんのこと報告した返事だと思う。わたしまだ見てないから先に見といて。それじゃ」 伊里野は端末を起動する。認証コード、指紋認証、音声認証、クリア。 幾何学模様を適当に並べたような文章が一瞬で何行も映し出される。伊里野の視線はそれをなんでもないかのように端から端まで流していき、その後もスクロールして指示を読んでいった。 セミが一匹、保健室のすぐ横の木に止まり、大音声で自分はここにいる、と叫んでいた。 椎名はそれこそ5分と待たせず帰ってきた。 「お待たせ。指令なんだって?」 椎名の発言に合わせるように、セミの声はぷっつりと止む。 「4次が発令されたから授業が終わり次第レールガンを使えって」 「あー、じゃあシャッフルしなきゃよかったかな。ランディングポイントは?」 「ブルズアイ方位270。距離0.5NM。今のブルズアイは美影」 「先のことを考えて……か。了解。じゃ、はいこれ」 声と共に椎名が手渡してきたのは一枚の紙だった。 「にゅうぶとどけ?」 「そ、部活に入るにはこれを書かなきゃいけないの」 椎名はなぜか顔を窓のほうへ向けている。 「誰に渡すの?」 椎名は伊里野の質問にすぐには答えず、しばし間をおいてから、 「浅羽くんに渡すしかないじゃない。浅羽くんが誘ってくれてるんだから」 「でも転属願いなら佐官以上の――」 「加奈ちゃん、ここは軍じゃないの。ルールに縛られる必要はないのよ。顔も見たことのない大人に渡すより、浅羽くんに渡したほうがいいに決まってるじゃない。それに、これはお礼も一緒に伝えるいいチャンスなのよ。面と向かって渡すのもありだけど、緊張しちゃうでしょ。だから、これを浅羽くんの下駄箱に封筒に入れて置くの。そこなら浅羽くん以外には渡らない」 「それ、お礼にならな――」 「何言ってるの加奈ちゃん!」 突然椎名が椅子を弾き飛ばすように立ち上がった。 「いい? 女の子が下駄箱に封筒を入れるのよ!? 名前は絶対に忘れちゃダメ、封筒はこれを使って! このシールも使うのよ! この封筒とシール、下駄箱! これだけの素材があって気づかないようなトウヘンボクなら代わりに私がグロッグ片手に顔面に叩きつけてやるわ! この三種の神器を備えた以上中学生にしてみたら人生のピークに上り詰めるほど嬉しい出来事に決まってるの! だから絶対に大丈夫! 浅羽くんも必ずかんちが……喜んでくれるに決まってるから! ハイこれ!!」 P7K短機関銃7連マガジン装填式かのようにうなりをあげた椎名は半ば息を切らしながら伊里野に封筒とシールを手渡す。 あられもないピンクの封筒だった。 時代を超えて受け継がれ続けてきたトランプの一翼、ハートマークのシールだった。 「わかった」 「じゃ、早速入部届け書いちゃいましょ。後20分もしたら5限が終わっちゃうから急いでね」 伊里野は渡された入部届けを椎名の指示に従い記入する。まず封筒の裏に伊里野加奈と名前を書き、続いて入部届けの記入に移る。 しかし、 「あれ、どうかした加奈ちゃん」 保健室の机を借りた伊里野はこれも貸してもらったペンを片手にある部分で止まってしまった。 曰く、入部を希望した理由。 この欄に差し掛かると同時に伊里野は授業中にペンを持ったまま眠りこけている一般生徒と見紛う存在と成り果てた。この1分微動だにしない。 椎名が歩く音がして、 「――だめよ。ちゃんと正直に書かなきゃ」 視線だけを、耳元でささやく椎名の顔に向ける。 隠すこともしようとしない満面の笑みだった。 止んでいたセミの鳴き声が再び響くころになってようやくペンが動く。 ペンは大きすぎる欄の中央に向かい、 浅羽と書いて再び停止する。 ペンを置く。両手が伊里野のほほの位置に当てられる。 「あつい……」 椎名が再び覗き込んできた。 「んー? 浅羽だけじゃわからないよー? 浅羽くんがなに? 誘ってくれたから? そばにいたいから? それとも――」 椎名のハイテンションな煽りを遮るかのように突然ベルが鳴り出した。 保健室の電話だ。 椎名ははっきりと舌打ちをして、受話器に向かった。 しばし伊里野は受話器を通じて不機嫌そうな声を上げる椎名を見つめていた。しかしそれが怒鳴り声に変わり、叱咤するような声に変わったのを聞いて伊里野の視線は急速に手紙に向かい「浅羽」の後に続く言葉を書いた。 入部届けを折り、ピンクの封筒に入れてシールで封をする。手紙を裏表と確認した後で椎名にまた視線を向けた。 椎名は窓に向かって怒鳴り声を上げている。 伊里野は1度だけ深呼吸をして、おきっぱなしになっていた椎名の煙草の箱を手に取った後、まったく歩く音を立てずに保健室の扉まで向かった。 素早く扉を開けると音が鳴ることを知っているのか、そっと扉を開けた伊里野は視線を椎名に送らないように廊下に身を出し、 「あ、加奈ちゃん、どこ行くの!」 伊里野は体を廊下に出したまま数瞬考えて、 「といれ」 画面が猫のようにしなやかに移動していく。 すでに間取りを把握しているのかその足取りに迷いはない。 保健室から下駄箱に向かうまでには外に面した渡り廊下と、校舎の中心部分にまで向かう教室に面した長い廊下がある。 渡り廊下はその姿を隠すものが殆どない。コンクリートの柱が両端に3柱ずつあるが、双方の入り口から見ると遮蔽物にはなりえない。しかし伊里野に迷いはなかった。 渡り廊下に躍り出るとものすごい勢いで対面まで向かう。しかし途中、英語の安永が渡り廊下に向かっているのが視界に映る。伊里野は見事な急速ターンで勢いを失わずに柱の影に身を隠し、鉢合わせを防いだ。 しかし廊下に出た安永は視界に何かが横切るのを捉えていたのか、 「ん?」 と声に出した。 柱ごしに足音が近づいてくる。伊里野は自分の右手側を見て、さっき保健室で手に入れた煙草の箱を放り投げた。地面に着地するのを確認した後、自分がいる反対側の柱へ迷いなく走る。 柱の影から安永の方を覗くと、目論見どおり音のしたほうへ向かっていた。 安永から視線を戻すと、先ほどまで居た保健室から叩きつけるような音が鳴り響いた。封筒もシールもないことに気づいた椎名が伊里野の計画を看破したのだ。一瞬だけ椎名と目が合う。椎名の目が完全に狩人のものに変わっていた。 逃げるように視線をそらし、再度安永がこちらに視線を向けていないことを確認して対面の廊下へ飛び込むように駆け込んだ。背後で、 「た! 煙草じゃないか!?」 という叫びが響く。 安永は当然先ほど見えた人影を探すが、犯人の伊里野は既に隠れている。 伊里野は影から渡り廊下を覗き見る。 ちょうど伊里野の位置と真逆の位置に狩人の椎名が立っていた。 椎名は煙草を握り締める安永と、隠れている伊里野を交互に見て、また激しい舌打ちをした。そして瞳を閉じて一瞬だけ息をつき、 「あれ、安永先生。どうかされました?」 「椎名先生! 見てくださいよ! これ」 こうなれば伊里野の目論見どうりである。その後の成り行きを確認せぬまま、伊里野は長い廊下を低い姿勢を保ったまま通過した。 見慣れた下駄箱の乱立する空間に伊里野はたどり着いた。 今朝と同じく、周囲への警戒を怠らず、念入りに確認する。 椎名を気にしているのか、渡り廊下の方角にだけは視線が多く向けられた。 姿は見えないが、それは椎名がまだ安永を抑えている証拠だ。 伊里野は安心したのか空気を一気に吐き出した。 右手に握られていたピンクの封筒を再度確認しているようだ。 裏を向け、伊里野加奈という記入も確認する。 そして伊里野の足は2年4組の下駄箱に向かい、正確に「浅羽直之」の名札がついている場所で止まる。 伊里野の視線からすると少しだけ上にあるその箱を正面に捉え、それでももう一度周囲に目を向ける。その目が再度浅羽の下駄箱に向けられ、 「浅羽……なおゆ……き」 ブンブンと画面が左右に触れる。 伊里野の手が浅羽の下駄箱のフタに触れ、きれいとはお世辞にも言えない25センチのスニーカーの上に一度横向きに置かれてフタが閉まる。しかしすぐにフタをまた開けて、封筒を取り、スニーカーに立てかけるように縦に置き直した。 フタが閉じられる。画面がためていた息を吐き出した。 画面が動き、上履きのまま伊里野は下駄箱置き場から外へ出る。 むせかえるような熱気が画面越しにでも伝わるような景色と、澄み渡った空が広がっていた。 風が吹き、伊里野の長い髪が画面に何度も翻り、その髪を無造作に伊里野は押しのける。 セミの声がした。 伊里野はゆっくりと空を見上げて、 「ありがとう」 「目」が閉じられ、映像はそこで終了した。
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