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契約


「結局、このファイル持ってきたあいつ誰なの?」
「十中八九、軍の人間だ」

浅羽夕子の問いに水前寺はあっさりと答えを返した。
夕子は先ほどの騒動の後水前寺が思い出して持ってきた雨具ポーチの中から取り出したタオルを頭に乗せたまま悩む。
「でも、監視してるのも軍なんでしょ? なんであんなことしたのか全然意味がわからないんだけど」
「多少の予測が混じるが、恐らく君自身がおれを警戒するように差し向けたんだろう。ま、普通なら確かに効果があったと思うしな」
「普通ってどういうことよ」
再び夕子の視線が鋭くなるのを横目に見て、水前寺は取り繕った。
「いやいや、他意はない。君の警護がやつらの目的だとしたら寄り付く虫を排除しようとするのは間違ってはいないからな」
「でもやり方が気持ち悪くない? 軍のやり方ってこんな感じなの?」
「ふむ」
夕子の意見はもっともだった。確かに軍の目標の排除の仕方はきれいだとは言わない。しかしそれにしても今回の方法は確かに異様にも思える。記憶を消すのがスマートだとは言えないが、もっとうまい方法は他にあったはずだ。なぜ今回はこんな回りくどいやり方を取ったのか。
「その近づいてきた男は軍の人間だと思うかね?」
「よくわかんない。気持ち悪すぎてあんまり見てなかったから」
「まぁ当然だな。おれも直接やつらと対峙したことは恐らくないからなんとも言えんしな」
「恐らく?」
しまった、と水前寺は内心で思った。雨で濡れた上着を引っ張りながら夕子を見ると、視線はこちらの挙動を見逃すまいとじっと見つめてきていた。隠し事はできそうになかった。観念したことをため息で表現する。後頭部をぼりぼりとかきむしりながら水前寺は答えた。
「記憶を消されたんだ」
「――――。えっ」
あまりに唐突すぎたのだろう。一瞬の間があってから夕子は驚いた。水前寺はかまうことなく続ける。
「殿山で爆発事件が起きただろう? あの日からつい最近まで、まったく記憶がないんだ。軍の警戒網をくぐって潜行する計画を練って、実行に移したまでは覚えているんだが、気がついたら田んぼのど真ん中に突っ立っていた」
夕子は顔で、はあっ!? と言いそうな顔をする。
「驚くのも無理はない。おれだって記憶を消すってのはもっとこう、低水準のものを想像していた。一定期間とはいえ、あれだけ正確に必要な範囲を消し去る事ができるとは、」
「そうじゃなくてっ! なんでそんな目に合ってるのにまだ危険なことしようとしてるの!? 今度は記憶だけじゃすまないかもしれないじゃない」
「あ、――ああ」
今度は水前寺が夕子の言葉に驚く番だった。
正直、夕子の行動や発言の数々が浅羽特派員のそれと被った。そしてその遠慮のない質問の仕方には須藤特派員のものともだ。夕子は続けた。
「これからやろうとしてることって、本当にやらないといけないの?」
夕子の質問を受け、水前寺の視界に浅羽と須藤の顔が同時に浮かんだ。
あの2人ならどう答えるだろうか。
以前からあの2人には思うことがあった。
それは『なぜそこまで相手の心配をするのか』ということだ。
浅羽はかつての取材中、会ったこともない老夫婦の話を聞いただけで涙ぐんでいたし、須藤はお礼すらもらえない犬猫の里親を探すために園原市中を駆け巡ったりしていた。
――やらない善よりやる偽善。
この言葉はかつて自分の口から出た言葉だ。この言葉が使われる意味も、意図も知っている。それを自分自身で実行することもある。しかしそこには自己満足に近しい感情の機微があるからで、その一点に限って言えば、自己満足でしかない行動をあの2人が実行に移す確率は異常に高い。
例えば困っている人間を見たとき。
水前寺はその人物に状況を聞き、その内容について納得がいけば解決に向けて協力する。そこに見返りがあればなおいい。見返りがなかったとしても、自分が納得すればそれでいいとも思っている。
浅羽なら、まず周囲を確認するだろう。その上で他に頼れる人物がいなければその人物の正当性如何に関わりなくまず助力を申し出るはずだ。
須藤ならもっとわかりやすい。彼女なら困っている人間を発見すると同時に、周囲の人間の確認など一切せず困った人間のもとへ向かう。助力を申し出た上で話を聞き、そこで必要ならば初めて周囲をうかがって協力者を探すだろう。
同じような状況に立ったとしても、水前寺には彼らが違った行動を取ることが想像できる。
それは水前寺にとって奇異であると同時に、興味対象でもあった。彼らと過ごした時間はそう長くないが、学ぶことは多くあったように思う。もしかしたら学ぶと言うよりも、忘れてしまったことを思い出すと表現したほうがいいかもしれない。
母親を失ったあの事故の瞬間から抜け落ちてしまった何かをあの2人と、そして夕子は持っている。
それが水前寺の胸に響くのだ。
さらに言えば、伊里野加奈の存在も水前寺にとっては大きな存在だった。
彼女は、水前寺とは違った意味で大切な何かが欠けているように感じていた。彼女の場合、忘れてしまったのではなく、学べなかったことだったかもしれない。
ともかく、水前寺は伊里野の中にどこか共感する部分を感じた。あるべきものがない。それを必死に学ぼうとしているようにも見えた。その視線の先には常に浅羽の存在があった。
正直に思い返せば、出会った当初の彼女からは共感を覚えつつも、彼女自身に興味はほとんどなかった。当時は園原基地に潜入することばかりが脳内を先行していたことも理由に挙げられる。
その興味が大きく変化を及ぼすようになったのは旭日祭を超えてからの彼女の変化を見てからだろう。
浅羽のことしか見えていないのは相変わらずだったが、その行動には確かに強い感情の波があった。浅羽が笑えば本当に些細ではあるが幸せそうであったし、気を使うような仕草も見たことがある。
あの不器用さは見ていて面白かった。
浅羽が部室に訪れ、暑そうな声を上げた。浅羽よりも早く部室に訪れてパイプ椅子にちょこんと座って手持ち無沙汰そうにしていた伊里野が机の上に放置された須藤持参のうちわに手を伸ばした。以前須藤がそれで涼んでいるのを水前寺も一緒に見ていた記憶がある。そしてうちわをその細い指で掴み取ったとき、当の浅羽は扇風機のスイッチを入れて小学生のように顔を扇風機の目の前に持っていって、
「あああああ。すずしいいい」
とダミ声を出していた。伊里野は即座にうちわから指を離し、顔を赤らめてパイプ椅子に座ったその体をさらに沈めた。
目の前で、共感を覚えた人間が変わっていく様を見るのは非常に興味深かった。
大袈裟な表現をすれば、浅羽を通じて彼女はどんどん人間らしくなっていったのだ。
浅羽と、須藤と、伊里野と。
彼らをもっと見ていたいと思ったのは、すべてが崩壊してからだったのだから情けなくて腹が立つ。
だが。だからこそ自分は行動するのだ。
水前寺は夕子の問いに答えた。
「無論、やらなければならない」
「なんで? どうしてそこまでするの?」
ためらいも、恐怖もなかった。
「簡単だ。――おれが園原電波新聞部の部長だからだ」
今度は夕子が沈黙する番だった。
突然夕子が頭に被せていたタオルを首に移動させた。そしてベンチから立ち上がり、水前寺から離れて屋根の端から滴り落ちる雫を見つめ出した。
「ふーーーーん」
「なんだ、何か言いたいことがあるなら言いたまえ」
「別にー。ただ……」
「ただ、何かね」
離れていた夕子は突然体をひねって水前寺に向けて笑顔と同時に何かを投げた。
「やるならしっかりやってよね、って思っただけ!」
危うく取り落とすところだったが、水前寺はなんとかその物体を受け取った。
それは約束していたグレーのカードだった。カードを確認し、水前寺はそれを眼前にびしっと掲げ、
「大きなお世話だ。だが、まかせろ」
夕子はよし、と大きく頷いた。そして再び顔を背け、
「ねぇ、センパイ。1つお願いがあるんだけど」
「奇遇だな。実はおれもだ」
「じゃあ交換条件だね」
「ああ」
そして夕子は雨に伝えた。
「私も連れてって」
水前寺は地面に向けて答えた。
「駄目だ」
「どうして?」
「君がいなくなると浅羽特派員が悲しむ」
「そうかな?」
「そうとも」
しばしの沈黙が流れる。空を見つめたままの夕子の表情は伺いしることができない。夕子の背中が大きく息を吐いた。
「わかった。じゃあ代案。――無事に帰ってきて」
「なぜ」
「ほ兄ちゃんが悲しむから」
「そうかな」
「そうよ」
今度は水前寺が大きく息を吐いた。息を吐くと同時に、とてつもなく大変な契約内容を提示されてしまったように思う。今後の計画を考えれば、その契約を履行するためにはかなり緻密な計算と、なによりも運が関わってくる。しかし、そう思うと同時に水前寺の表情には笑顔があった。
「――ああ。わかった」
「そっちの条件は?」
「今日した話は秘密にしてくれ」
夕子が振り返る。その顔には風に流されてついた雫と、自分と同じような微笑みが浮かんでいた。
「じゃあ契約成立ね」
ずいと夕子が水前寺に近づき、ベンチに座り込んだままの水前寺にぐーを突き出す。
「ああ」
水前寺は夕子が繰り出したぐーをぱーで受け止めた。互いに雨で濡れた手が闇を突き抜けるような乾いた音を立てた。
「破ったら酷いからね」
「君も覚悟しておくといい」
どちらともなく2人は短く笑い合い、空を見上げた。そして同時に気づいた。
「やんだな」
「やんだね」

雨が上がり、短い時間をかけて月が雲間から現れ、下界の2人を見下ろしていた。



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