カウンター

作戦


31、30、29、
水前寺は時計を見ながら心の中でカウントダウンを進める。
非常に狭く暗い場所ではあったが、おかげで警察官は寝そべる水前寺との距離を1mの距離まで近づいても気づくことはない。カブの位置を再度確認し、カブを見張る2人の警官の服装を確認する。
クリア。
12、11、10、
待機しているはずの町田にライトでモールス信号を送ると、ビルの影から町田が水前寺に向かってライトを照らす。だが町田はさっき教えた信号を完全に忘れているようで、無意味にライトが連続で点滅する。不安が水前寺を襲うが、もう町田を信じるしかない。
3、2、1、
スタート。
水前寺はカウントの終了と同時にバッグの中に入れていた装置を作動させる。
しばしの間が空き、警察官の動きが突然あわただしくなる。
近くの警察官の無線での会話が耳に届く。
「不審な煙? ――了解」
ザザッという砂嵐が通り過ぎるような音を残して警察官は仲間に駆け寄った。
「聞いたか? 2台で応援に向かえ。それと――充分に警戒して行け」
1人の警察官の指示に従って2台のパトカーが水前寺が先ほど投げてきた亜硫酸ガスカプセル式を目指して急行する。こういう事態に備えて投げておいたが、早速役に立った。害が及ぶタイプではないが、園原市は妙な匂いやガスに対しての訓練が市民にも警官にも行き届いている。ゆえに彼らは水前寺の手の上で気づかずに踊ってくれる。
しかし、現場に残った人数は4人。水前寺のカブの傍に1人と、3人がそこに到るビルの正面に立ちふさがっている。
決して多い人数ではないが、全員を相手にするには少々小細工が必要だった。
パトカーは残り2台。水前寺は寝そべっていた体を少しだけ起こし、いつでも走り出せるように構えた。前準備はすべて整った。
水前寺が立案した作戦はこうだ。
警官の注意をまず水前寺が引く。その後に町田がパトカーに細工し、水前寺に引き寄せた警官の注意を町田に向けさせる。当然警官は町田を追うから、その間にカブを取り戻す。
――あんた、どうやって警官の注意を引くつもりなんだ?
任せろ、警官の職務を利用するんだ。

そして、水前寺は大声で叫んだ。
「いやああああぁああああぁぁあああ!! たすけてぇぇぇえええええええ!!」
腹の底から出した『暴行を受けそうになっているうら若き乙女の悲鳴』に水前寺は満足した。
警官たちが一斉に車道に不法に止めてあった違法駐車中のセダンに向けられる。警官たちは明らかに動揺した。
なにやらレッカー移動待ちの車の方から世にも恐ろしい野太い悲鳴が救援を求めてきたのだから警戒して当然である。しかもどうやら車には誰も乗っておらず、車の中には誰の姿もない。
警官たちはお互いの顔を見合い、唾を飲み込んで一欠けらの勇気を振り絞って車に恐るおそる足を進める。
カブの傍で待機していた1人は頑として持ち場を離れなかったが、3人が徐々に車の下で這いつくばっている水前寺に接近する。
水前寺がニタリと笑う。
ビルの影から町田が姿を現した。
町田はその手に拳大の石を持っていた。その石を掲げ、パトカーに接近して1台目のパトカーの運転席の窓を叩き割る。
その音は水前寺の傍に歩を進めていた警官たちの耳にも届き、全員が振り返る。
町田は体を急転回させ、もう一台のパトカーの同じ窓を叩き割ってから一目散に逃げ去る。去り際に投げた石がトドメとばかりにパトカーのフロントガラスに激突し、パトカーの中は無残にもガラスだらけになる。内側に入り込んだワイパーのせいでパトカーは泣いているようにも見えた。
警官たちがパトカーにたどり着いたときには町田は脱兎のごとく逃げ去り、その影すら遠い。
警官たちはさらに舌打ちする。
即座にパトカーで追おうにもガラスが内側に大量に入り込み、座席を覆いかぶさっている。
警官たちは一瞬迷った。
無傷で自慢の足で犯人を追うか。
自分達の尻にガラスが突き刺さるのを我慢して即座に運転して犯人を追うか。
手が血だらけになるのを覚悟でガラスをなぎ払って尻にわずかにガラスが刺さるのを我慢して犯人を追うか。
1人の年長の警官が若い部下を指差し、次に運転席を指す。
指差された若い警官が全身で拒否する。
年長警官は次に若い警官を指差し、運転席を指差す。
指差された次に若い警官が全身で拒否する。
年長警官は指を指したまましばし停止する。
3人の警官がお互いの顔を見合わせた。神妙に頷きあい、
「おらあああああ待ちやがれえええええ!」
「てめぇええ逃げられると思うなあああ!」
「弁償しやがれえええええええええええ!」
怒号を撒き散らしながら町田を追いかけだした。
――全員実に公務に実直であった。

水前寺は待ってましたと言わんばかりに車の下から弾丸のように飛び出した。通りを一気に横断し、カブを止めてある場所に隣接する雑居ビルの外階段へ一直線に向かい、急な階段を飛ぶように駆け上がり、2階の廊下を走り抜けて愛車が待つ方向へ一挙に近づく。廊下の端に到達すると同時に水前寺の腰ほどの高さの手すりを越えてビルから飛び降りる。その身は軽々と下にあったブロック塀に着地した。
この時点で1人残された新米警官は近づく物体の存在に気づきはした。しかし余りに突飛なその動きに翻弄され、即座に行動ができなかった。
水前寺はブロック塀を平均台の上を走るように3歩で警官との距離を3mに縮め、塀から飛翔した。
秋の深夜に、滑空男が叫ぶ。
「ほあああああああああ!!」
「うわああああああああ!?」
新米は奇声を上げながら飛び込んでくる物体に恐怖し、思わず頭を抱えてしゃがみこむ。
直後、頭上を何かが通り過ぎる音を感じ、続けて新米の隣にあったゴミ集積所で盛大に何かが転げまわる音がした。
10秒ほど新米は目を開けることができなかったが、空き缶が足元に転がり来る音を聞いて恐るおそるその目を開ける。その眼前には身の丈豊かな偉丈夫が肩で息をしながらゴミまみれになって立っている。とてもじゃないが立ち向かう勇気など起こらず、今度は悲鳴すら出ない。
ゴミ男が叫ぶ。
「避けるなっ!!」
新米は首に強い衝撃を覚え、意識が遠のいた。
10分後、仲間に助けおこされた新米の頭には、大量のバナナの皮が乗せられていた。

「ああくそっ! 臭いっ!」
水前寺は愛車を右手で操作しながら町田が今も向かっているはずの方角にむけてカブを飛ばす。
いくつかの曲がり角を抜けたとき、3人の警官が1人の男に追いすがるのが見えた。
町田と3人の警官の体力の差は歴然だった。先行していたはずの町田と警官の距離はもう5mもない。町田は疲労の限界が来ているのか、走り方までおかしくなっている。
「いやあああああああ! 助けてええええええええ!!」
自身の胸を襲う吐き気は左手に持ったゴミ袋の匂いのせいだろうか。それとも前髪から鼻下まで垂れてきた納豆の匂いのせいだろうか。それとも町田の上げた気色の悪い叫びのせいだろうか。
半ば水前寺は冷静ではなかった。
カブをフルスロットルで飛ばし、あっというまに3人の悪漢もとい、警察官を追い抜くと、
「食らえっ!!」
左手に持っていたゴミ袋の口を解き放ち、さらに袋ごと後方に投げ打った。
阿鼻叫喚とはこのことである。
水前寺によって選定された特別濃厚な匂いを放つ生ゴミの集合体が3人の鼻や口を襲う。そして年長警官が先ほど新米警官の頭に乗せてきたのと同じバナナの皮を踏んづけて転んだ瞬間を見て、水前寺は思わずおおっと歓声を上げた。
「浅羽特派員っ! 仮説は正しかったぞっ!! バナナで人は転ぶ!!!」
警官の追走を封じると、水前寺は速度を落として町田と併走する。
「おい、町田」
「きゃっ」
普通に水前寺は声を掛けたつもりである。しかし、肉体の限界を凌駕しつつ警官3人に追われるという極限状態に追い詰められていた町田は思わず黄色い悲鳴をあげた。水前寺は思わずハンドルを町田の方向に向けそうになるのを必死に我慢した。
「……おれだ。もう止まっていいぞ」
「ああ……」
緊張の解けた町田は全身の力が抜けたようにその場にへたり込む。
「はあっ、はあっ、はあ……おせぇよ、げほっ」
「すまん。ちょっと手間取った。なんにせよ後ろに乗れ。まだ追っ手が来るぞ」
町田は後方を振り返り、先ほどまで感じていた恐怖を思い出したのか瞬時に水前寺の後ろに尻を乗せる。だが町田の鼻腔を襲う臭気が水前寺から発せられることに気づいて、
「おいっ! あんた臭ぇぞ!」
「文句があるなら降りろ!」
町田の不満を上げる声に水前寺が苦々しい表情で振り向いた。その表情があっというまに曇る。
「まずい……」
「は? なにが、」
「捕まれっ!! やつらだっ!」
再びカブをフルスロットルで飛ばす。
必死に水前寺にしがみついていた町田はなんとか後方へ視線を向ける。
「いっ!?」

白いバンが悶え苦しむ警官の脇を駆け抜け、ガードレールにバンの横腹が接触して火花が散るのを気にも留めずにこちらを轢き殺すような勢いで猛追してきていた。


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