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別れ



            ~伊里野が空に帰っていく~


 どこまでも広がる夏の空を、ブラックマンタが飛び立っていく。
一度も振り返ることなく、ただひたすらに空へと向かって。

 浅羽直之はその姿を、倒れたまま見上げることしかできなかった。
 真っ赤に染まった黄昏の空に、ブラックマンタの残した太陽の色だけが残されている。
 デッキの上で仰向けになって空を見つめる浅羽の体を突風が襲う。広大な海原を越えてきた風は猛獣のように荒々しく息巻き、浅羽の体を喰らい尽くすかのような熱気に満ち溢れている。
 風が孕んだ熱は浅羽の呼吸と同時に肺の奥に入り込み、細胞の一つ一つを焼き尽くす。
けれど浅羽は動かない。
 猛獣の残した熱に対抗するかのように、タイコンデロガのデッキまでもが浅羽の体を熱している。体の背面は火傷を負ったように痛みが走り続けている。
 それでも浅羽は動かない。
 赤道の明るみに触れて赤く輝く空を見つめ、返事がないとわかっていながらも伊里野の名前を呼んでしまう。
 何度呼びかけても返事はない。さっきまで隣にいてくれた伊里野はもういない。
 船壁に当たる波濤の音だけが耳に届き、ここは世界から切り離された空間なのだと浅羽は錯覚しそうになる。それほどの静けさが空母に広がっていた。この静けさの中には 不器用に微笑む笑顔も、優しく自分の名前を呼んでくれる声もない。守りたいと思った大切な女の子、伊里野加奈はもうここにはいない。
 伊里野がいないという抗いようのない事実。
 脳がやっとのことでその事実に気づき、涙が浮かぶ。
 溢れてくる涙を押さえつけようと両腕で顔面を覆う。けれど涙はせきを切ったように溢れ出て、零れ落ちた涙は一瞬にして蒸発して消えていく。
 涙はまるで初めからそんな感情など存在しなかったかのように夏の空にあっという間に解けていく。
 伊里野がひとりで空に帰っていったのは、弱かった僕を守るためだ。今までだってずっとそうだった。
 ――だいじょうぶ、へいき。
 そう言って精一杯の強がりの笑みを浮かべて、心配させないようにしていた。本当は誰よりも苦しいのに、誰かに助けて欲しいのに、弱音を吐く相手も見つけられずに伊里野は耐え続けていた。
 誰も助けてくれない、誰にも秘密を打ち明けちゃいけない。そんな過酷な日々の中で、誰かにすがることすらできなくて、もう誰を信じてもいいのかわからなくなっていたはずだ。
 けど、伊里野の髪が真っ白に染まったあの日。新聞部の部室で伊里野は助けを求めてくれた。助けを求められる唯一の存在に成れたのだ。それなのに。
「ぼくは……」
 必死に嗚咽をこらえようとするが、浅羽の喉からは後悔と自責の塊が土石流のように流れてくる。違う。何もできなかったなんてただのいい訳だ。何もしないことよりも残酷な言葉で罵って、拒絶して、記憶が退行する程傷つけた。やはりすべてはあの夜の出来事から始まっていたように思う。
 あの夜。軍用列車しか走らない線路の上で。
 あの夜の自分がもし目の前にいたら、殴りつけてやりたい。
 苦しんでいるのは自分だけだと勘違いをして、伊里野のこれまでを全部忘れて。言い訳をするためにまたいい訳を作って、絶対に選んではいけなかった道を選んでしまった。
 だから伊里野はこの世界からいなくなってしまったのだ。
これは、当然の報いなのかもしれない。
 あんな酷いことをして、自分の間違いから逃げようとした自分を神様は許してくれなかったんだろう。だから神様は一番大切な伊里野を奪っていった。もう二度と会えないところに伊里野を連れて行ってしまった。
 伊里野には二度と会えない。
 伊里野の優しさに触れることはできない。
 あのはにかむような笑顔を見ることはできない。
「……嫌だっ!!」
 顔を押さえつけていた右手がデッキを強く打ち付ける。何度も何度も、激情のままにこぶしを振るう。嗚咽を吐き出し、感情に身を委ねるうちに右腕の感覚が消えていき、最後には手首から響く微かな痺れしか感じなくなった。
 そのまま自分のすべてを消し去ってしまいたかった。だが現実は痛みになって帰ってくるだけで、浅羽直之という存在は決して揺らがず、ただデッキの上で涙を流している。
 浅羽は溢れる涙をぬぐい捨てて立ち上がった。
 後頭部が異様な熱を放っている。けれど目尻から流れるものはもっと熱い。それは拭っても拭っても止まろうとしない。
 体は押さえつけられても、心が泣いていた。
 灼熱の空に向かって浅羽は咆えた。
 伊里野を永遠に失ってしまったことを認めたくない。そう思いたいのに。弱い心は泣き続けている。 ――まだ諦めたくない、伊里野を失いたくない。
 そう叫びたいのに。悲しみが体を蝕み続けて、後悔の波が体を押し流して、獣のように叫ぶことしかできない。
 言葉にできない痛みを叫び続けた。
 涙が風に乗って夏の空に四散する。太陽の輝きを反射しながら落ちていく涙はデッキに落ちた。浅羽の悲しみが詰まった涙は、デッキの熱に一瞬と持たず蒸発して消えてゆく。両手の震えが止まらない。震える両手を見つめてこぶしを強く握る。
 どうすればいいかなんてわからない、けどこれだけはわかる。空だ。空に行くんだ。そうだ、忘れたか。ここは世界が誇る原子炉搭載式強襲戦艦タイコンデロガ。戦闘機なんていくらでもある。それを奪えばいい。奪った戦闘機で伊里野の所まで行けばいい。
 自分の考えがどんなに浅はかで、愚かであるか。そんなことは浅羽自身もわかっている。けど、何かをしていなければ苦痛に押しつぶされそうだったのだ。
 顔を上げる。
 浅羽の目に飛び込んできたのは全身を血だらけにした榎本の姿だった。サブマシンガンの銃弾を受け、自身が作り出した血溜まりの中に溺れる榎本が、生きているとはとても思えなかった。
 そして榎本をそのような状態にしたのは、その引き金を引いたのは、見慣れたはずの自分の指だ。浅羽は先程から震え続けていた手を見つめ直した。
 見慣れていたはずの手のひら。震えているのはさっき打ちつけた痺れがまだ抜けていないからだと思っていた。
「……が、ぼくが……撃った……」
 誰かの命を奪いかけているという拭い去りようの無い恐怖、罪の意識、それらが震えとなって現れていたことに今更ながらに気づく。浅羽は歯を食いしばり、恐怖と一緒に 手のひらを握りつぶした。
 大声が聞こえる。
 浅羽と榎本を指差して、完全武装をした兵士達が向かってきている。
「来るな……」
 兵士達は止まらない。上官を撃った輩をただで済ますはずがない。
 はっきりとわかる程の憎しみを込めて何人もの兵士が銃を構える。

 反射的に、浅羽の心に憎しみが宿った。
 伊里野の傍にいたかった。傍にいられるだけで幸せだった。
 一瞬でも伊里野に長く生きていてほしかった。それだけ、たったそれだけだったのに、
――全部、あんた達のせいだ。
 あんた達の作戦が、こんな世界を守ろうなんてくだらない作戦が伊里野を戦わせていたんだ。それなのに感謝もせず、裁きも受けず、自分たちは伊里野が守ってくれた世界でのうのうと生きるつもりか。あんた達がこれから暮らす平穏でありふれた毎日は、ひとりの女の子の犠牲の上に成り立っているんだ。
 ぼくの、大切なひとの命の上に。
 憎しみが沸き立つ。しかし、憎しみが行動に移るよりも早く、うめくような声がすぐ傍で上がり、膝にまで血が飛んできた。
 榎本が背中を仰け反らせて血を噴き出した。低く、低く悲鳴を上げた。
「う……ぁ」
 赤黒く錆びたナイフが心臓を突き破るような錯覚を覚えた。
 ナイフが傷口を激しくえぐり、さらに体の内部に切っ先を向けて、ゆっくり切り進んでいく。包丁で豚肉を切るようなきれいな切り方ではない。錆びたナイフは切れ味が悪く、のこぎりのように前後に振動させながら浅羽の全身の細胞を切り刻む。
 浅羽の心はその拷問に耐えることができない。
 自分は何をしてしまったのだろう。
 恐怖が津波のように押し寄せる。精神に襲い掛かる恐怖と、切り刻まれる痛みが脳の一点に収束していく。神経を直に刻まれるような痛みに耐えられない。脳の痛みに全身の筋肉が弛緩する。震える足が自然に後ずさる。罪から逃れようと無意識のうちに体が逃れようとする。頭の中にいるもうひとりの自分が必死に現実から逃げようとする。
――そんなに重症じゃないかもしれないじゃないか。心肺が停止しただけだ。死んでしまうなんてことは。
 死ぬ。死ぬに決まっていた。恐怖は必死の防衛機能を簡単に切り捨てた。
「うぁぁあぁぁぁぁぁ!」
 クスリの切れた中毒者のように浅羽は呻き続ける。その足はガクガクと震え続け、絶えずその場から逃げようともがき続けている。焦点が定まらない。視界の全てがぼやけている。腕が動かない。腹の底にとてつもない重さを感じる。
 苦しみから逃れようと後ずさる浅羽の向かう先に、浅羽の痛みを永遠に失くすための逃げ道がある。もう数歩分しか距離は開いていない先で、それは浅羽が近づいてくるのを蛇のような残忍さで待ち受けている。それは地獄にそのまま続いているような深い穴だ。伊里野がブラックマンタを伴って上昇したのと同タイプのエレベータは今か今かと浅羽が来るのを心待ちにしていた。浅羽との間に間隔はもうない。
 三歩、二歩、一歩。
 兵士のひとりが叫んだ。しかしもうすべてが遅く、浅羽の体はひどく緩慢な速度で傾いていく。

 浅羽は自分の体から重力が消失するのを感じた。
 何が起こったのか理解できない。腹の底に感じていた重さが背中に走る戦慄にすり変わった。ぼやけていた視界に赤と黒の境界線が見え、体に走る恐怖の原因を理解した。
 落下するときに感じるあの浮遊感。内臓が登ってくるような感覚。ここにいるはずなのに自分の存在を忘れてしまう恐怖。夕闇の仄かな暗さが、絶対的な暗黒に塗り潰されていく。すぐに上と下との区別がつかなくなって、世界中の質量と速さが消え去った。
 時間の流れが変わったように何もかもがゆっくりと流れている。ひどく緩慢な速度でさっきまで立っていた穴の縁が見えた。そこから視線を上らせ、毒々しい茜色に染まっている空を見た。もう誰もが息を呑むような美しい赤じゃない。
 血だ。血の色に空が染まっている。
 絶望的な浮遊感に包まれながら、浅羽は理解した。

 死ぬ。

 真っ暗な闇の底、エレベータの分厚い鉄板に体中の骨を砕かれて自分は死ぬのだ。
 浅羽はゆっくりと近づいているであろう鉄板を見つめようとする。自分の死が訪れる瞬間をその目で見届けることが贖罪なのだと思った。だが浅羽はそれを受け入れた。一刻も早くこの汚れきった世界から消えてしまいたかった。その中でも最も腐りきった自分を殺してくれと願った。それがもう少しで叶えられるのだ。
 だが死はまだ遠い。世界の速さは失われたままで、暗闇の底はまだあまりにも遠い。だが浅羽は暗闇の底に周囲の黒とは違う色を見つけた。どこか光沢があり、厳かな黒色。その色に包まれた物体は次第に輪郭を形成し、浅羽に近づいてくる。そして徐々に近づく物体に浅羽は見覚えがあった。さっきまで近くにあったもの。空に帰ったはずのもの。
 それは、ブラックマンタによく似ていた。
 意識が暗闇の中に飲み込まれていく。闇の中にすべての感情が溶け込んで真っ黒に染まる。
 薄れゆく意識の中で、浅羽が願うことは一つだけだった。
 伊里野の笑顔が、もう一度だけ見たい。
 何かが煌いたのを浅羽は世界が終わる刹那に見たような気がした。
 そして……何も見えなくなった。


 続く

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