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監視


10月26日。すべてが変わった日。

その日夕子の実兄、浅羽直之は軍のヘリに載せられて連行された。
水前寺はその事実を知ってはいたが、独自の調査を行った結果であるらしく、水前寺自身がその目で目撃したのではないという。夕子は水前寺のことだから、また当日も学校を離れてどこかでUFOのけつを追っかけていたのだと思った。

妙な違和感を感じてはいた。兄はしばしの間家出をし、様子を変貌させながらも帰ってきた。その兄がカレンダーに丸をつけたのがその日だった。普段からそんな習慣などない兄にとって、印をつけずにはいられない日だったのだ。
しかし夕子にとってはその日は当たり前のように訪れ、そして当たり前のように終わるのだと思っていた。
突然の轟音が序曲だった。
ヘリが校庭に着陸する音が園原中学全体に響き渡り、続いて兄の名を呼ぶ放送。耳を疑いながらも嫌な予感が全身を襲って夕子は教室を飛び出した。兄の教室は夕子のいる教室からは違う校舎にあり、その手が兄の教室の扉を張り飛ばすような勢いであけた時には既に兄はヘリに乗り込み、まさに空へ舞い上がろうとする瞬間だった。
恐らく兄は自分の声など聞いてはいなかっただろう。
周囲の生徒と同様に呆然とした時間が流れ、眠っていた教師の飯塚が音頭を取って事態の収拾を図る頃になっても、夕子は空を見上げることしかできなかった。

放課後になり、兄のクラスメートである西久保正則に話を聞いた。
西久保も深い事情は知らないらしい。しかし兄は伊里野加奈に振られたのかと聞かれただけで涙を流したらしい。
半ば西久保の推測は外れてはいなかったように思う。ただ彼の予想と夕子の抱いた予想は時期がずれている。 西久保は伊里野加奈に振られたから兄は家出したのだと思っていたが、もしかしたら――。兄は伊里野加奈と一緒に家出したのではないか。その旅先で伊里野加奈と何かが起こった。その結果は必ずしもよい結果ではなかったのだろう。戻った兄は非常に憔悴して、傷ついていた。
しかし、それでもなお、兄は兄だったのだ。軍の兵士が放送で兄を呼び出すまでは。
西久保は兄の印象がその瞬間から変わったと証言していた。
あれはただ振られただけの男の顔じゃなかった。
冗談であるかのような言い回しであったが、西久保自身そう表現するしかなかったのだそうだ。
夕子はその変わった兄を見てはいない。
その後の、悪い方向に変わり果てた兄の姿しか見ていないのだ。
「次の日の夜に、お兄ちゃんが帰ってきたって連絡があって、軍の人が1人でお父さんとお母さんを迎えに来た。お兄ちゃんは入院することになって、後はアンタも知ってると思う。私が知ってることはこれでおしまい」
夕子はぽんと両手を胸の前で軽く合わせて目を閉じた。
水前寺のうなるような声が夜闇に飲み込まれていく。
「実は最後の事で君に話に来たんだ」
「最後のことって?」
「自衛軍。奴らは今も浅羽特派員に干渉を続けているのは知っているな」
「うん」
「――。君も監視されてるのは気づいていたか?」
心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。理解が感覚の後に追いついてくる。
「顔を向けずに目だけで見ろよ。おれの右手にある団地の3階だ。階段のところで煙草をふかしてる男がいるだろ」
「あの下着姿のおじさん? ……そうは見えないけど」
「じゃあなぜあの男はわざわざ階段まで足を運んで煙草を吸っている?」
「家族が煙草が嫌いだからじゃないの?」
「だとしたら普通吸うのはベランダだ。わざわざ自分のテリトリーを離れて階段の場所まで移動する理由がない。あの格好はもちろん住人がただ一服しているように見せるためで、あの場所にいるのはあの角度じゃないとおれ達2人を視認できないからさ」
「じゃあ、もし2人のうちどちらかが見えなくなったら」
「試してみよう。顔はおれを追え。目はあの男に向けてるんだ」
水前寺は背中を預けていた鉄棒から離れ、歩いて7歩の位置にある桜の木の影に隠れた。もしあの男が監視しているというのなら、あの位置からでは見えなくなるだろう。
「どうだ?」
「はずれ、動いたりして……あ」
男が煙草の火を消した。もしただ煙草を吸っていたのなら、その男は当然部屋がある東側へ進むはずである。しかしその男は反対の西側へと向かう。そこには階段やエレベータが設置されているコンクリートで覆われたスペースがあり、こちらからでは男の姿は確認できなくなった。
「階段の方へ動いたんじゃないか? 部屋の方からでは見えないから元々あの位置に居ただろうしな」
「行った。行ったけど多分、今階段を下りてるだけだよ。煙草が尽きたから買いに移動して――」
夕子の視線が1階へ一度降り、そしてもう一度3階へ向けられたときだった。階段用のスペースには小さな光取りの窓があった。それは大人の胸の高さにあり、わざわざ覗き込まなければあるはずがない。
――――先ほどの男の顔がそこにあるはずがないのだ。

「見てる……」
「ああ。あの位置なら3階の他の部屋から誰かが出てきても扉を開け閉めする間に小窓から離れられる。2階から誰かが上がってきても音でわかる。その上で今のおれの位置も把握できるというわけだ」
「ど、どうすんのよ」
「今はどうもしない」
「でも! ……なんで監視なんか!」
「そう声を荒げるな。奴らが異変を察知しておれが取り押さえられてしまう」
「なんであんたが取り押さえられるのよ」
「奴らが監視してるのは君だと言っただろう? 君を守るために監視してるんだ。厳密に言えば浅羽特派員とその家族を守るために彼らは行動している」
「守る……?」

水前寺が言うにはその根拠は2つ。
1つは先ほどの団地の下着オヤジ。
オヤジは水前寺と夕子が公園に着いてからすぐに現れた。
現れる瞬間こそ水前寺は見逃したが、まず感じた違和感は扉の開閉音がオヤジが現れる前にしなかったことだ。あの団地は相当に古く、扉を開閉するだけで甲高い金属音が響く。扉を閉めただけでも建付けの問題かかなり大きい音がする。しかしそのオヤジは無音で現れた。
階下からエレベータか、あるいは階段で登ってきたのかと疑問はすぐに消えそうになった。煙草を買いに行った帰り道だと言うなら話しはわかるからだ。だが先ほど夕子にも示したとおり、オヤジは階段スペースで煙草を吸っていた。吸うならベランダか、部屋であるはずだ。星空が見たいなどという供述はこの曇天では通用しない。厚い雲に覆われてしまった上空の何を見るというのだ。
いよいよ妖しくなってきたオヤジに対して水前寺は罠を張ってみた。水前寺は夕子の話しを聞きながらわざと懐にゆっくりと手を入れたり、背中側のズボンに手を突っ込んだりした。その度にオヤジは煙草を左手から右手に持ち替え、空いた左手を自分のけつに運んだ。恐らく無線機があるのだろう。水前寺が見せた妖しい動きを報告するか否か迷っているようにも見えた。二度立て続けに動かれたら最早彼がカタギでないことは明白だった。

そしてもう一つはここに移動するまでにあった。
水前寺が単独で行動している間には監視の目を感じたりはしなかった。しかし浅羽の家が近づくにつれ、そういった雰囲気をなんとなく感じ出し、夕子を呼び出してから後、門の傍で立っていただけで顔の写真を撮られた。大型のバイクが門の傍で佇む水前寺の前を通過し、爆音に紛れてシャッターが切られるような音が運転手のフルフェイスの中から聞こえた。恐らく、任意のタイミングでボタンを押せばヘルメットに内蔵されたカメラが起動する仕組みだったのだろう。
「恐らく音を聞かせたのはわざとで、その狙いは警告だ。その意図を気づかせるためにこんなわかりやすい監視体制を構築しているに違いない」
どこがわかりやすいのか夕子には全然わからなかった。
「川辺での会合を覚えているか」
眉が自然と寄る。あの殴り合いのことを指しているのはわかるのだが、あれのどこが会合だ。
「あの時もおれ達に監視の目は付いていた。タケヤサオダケのトラックがあの短時間で二度通り過ぎただろう。あれがそうだ。軍の連中か、北のスパイかはわからん。しかし浅羽・伊里野両特派員を追い掛け回したのだから監視を受けるのは当然ともいえる。両特派員に即害をなせるような距離ではなかったからそう大した監視ではなかったが、恐らくさらに追跡をしないかの確認と、盗聴が目的だったのだろう。パラボラアンテナ型のブースターマイクがサオダケに紛れて見えた。だがあんなずさんな盗聴から見るに、恐らくやっこさんもあの日は人数が足らずにてんてこまいだったのだろう」
混乱が表情に出ていたのかもしれない。
「なんだ、気づいていなかったのか? あの時は伊里野特派員が9割、その他大勢に1割ぐらいの監視だったはずだ。――だがやつらはその方針を10月26日を境に明らかに変えた。監視対象に君ら家族を含めるようになったんだ」
「なんで10月26日からなの?」
「そこはおれもわからん。10月26日というのも君の話を聞いての概算でしかないし、むしろ守っていると言ったことすら確証はないから奴らを信用していいかどうかすらわからん。君らに何かあっても放置して、結果だけを報告するという可能性も十分にある」
それは――。と夕子は口にするのを憚った。軍の人間との関わりが原因で兄がああなったというのは紛れもない事実だ。兄を連れ去ったのだから無関係であるはずがない。だから彼らを恨む理由は十分にある。
けど。家に説明に来た自衛官。先坂と名乗ったWACは子供のような風体だったが、その双眸は酷く疲れたような光を灯しながら父と母に接していた。彼女の受け答え、それは自衛軍兵士が一般市民に対する態度としては、なんというか、誠実だったように思う。答えられないことは答えてくれなかったが、ごまかそうとは一切していなかった。理不尽な状況に対する両親の憤りすら、彼女は受け止める覚悟だったように見えた。
少なくとも、先坂の態度だけは――。
「信じていいと思う。あの人たちのことなんて何も知らないし、お兄ちゃんがあんなになった理由を知ってるのなら首根っこ捕まえてでも吐かせてやりたいし、監視なんて気持ち悪いけど……。守ってもらえるんならプラスに受け止める」
水前寺は隣のブランコに座りながら鼻息を盛大に吹き出した。
「ふふん。そこらの度胸はさすが浅羽くんと言った所か」
「何よそれ」
「おれにぐーぱんをあれだけ叩き込んだのは婦女子では君が初めてだからな。そこだけは認めている」
「ばかじゃないの」
水前寺はへっとまた軽く笑った。
その表情は水前寺が現れたときに感じた違和感とは相反するものだった。あのときの水前寺はなんだか無理をして表情を作っているような、石膏で塗り固めたような固定された表情だったが、今は事あるごとに表情が変化する。それが何を意味しているかは夕子にはわからなかったが、違和感を感じながら話すよりは今のほうが楽だった。
「だがわからんのは奴らは何から君ら家族を守ろうとしているかだ。言うなれば軍の連中はわが国の総力だ。園原市以上に軍備が厳しい所は数あれど、それはどうも表側だけのような気がする。裏の戦力、という表現が合致するかはわからんが、歴史の表舞台に出ない裏側の戦力に関して言えばここの連中は規格外の能力と規律を持っていると思っている」
「あ、あれのこと? 記憶を消されたりだとか、変な記憶を刷り込まれたりだとか、妙な失踪とか。でもそれただの噂じゃないの?」
「事実だ」
水前寺の返答は驚くほど早く、しかも確信に満ちていた。
「ああいう類を裏でやっているやつらだからこそおかしいんだ。北の連中を警戒してのことだと思ってたんだが、その脅威は以前から変わらんだろうし、仮にでも北の連中が君ら家族をねらう理由が鼻毛の先ほども見あたらん。一体やつらは何を警戒しているんだ?」
夕子は口に出しては決して言うつもりもないが、軍が警戒しているのはこの男なのではないか。
軍側の戦力を分析したり、監視体制を看破したり。
そんなことがどこの誰にでもできるとは到底思えない。現に自分は今この男と話しただけでかなり多くのことを知った。そんな男を野放しにしているからこその警戒だと思うのだが、それを認めるのはくやしいというか、なんとなく腹立たしいので、この男には絶対の言わないことを心に誓う。
「まぁいい。それは調べていけばいつかたどり着く答えだろう。それで、だ。これからのことで君に頼みがあって今日は来たんだ」
「頼み? わたしに?」
水前寺はゆっくりと頷いた。伏せ目がちなのはいつも自信に満ち溢れている水前寺らしくはなかった。その目がどうも頼みにくいことを頼もうとしていることを伝えてきた。
「理由も教えてくれるなら」
夕子は背筋をブランコの後ろに向けて伸ばし、水前寺の顔が見えない位置に持っていった。なんとなく、その表情を見られたくないと思っているように見えたからだ。
数瞬の間があり、水前寺は右の拳を左手で受け止めるかのようにぱしっと一度叩きつけてからつぶやいた。

「浅羽特派員の部屋から、グレーのカードを盗み出してきてほしい」


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